第27話:京の伏魔殿
永禄四年(一五六一年)、秋。
岐阜城内は、休む間もなく慌ただしい。戦で傷んだ武具を研ぎ直す金属の音、各地から届く兵糧の搬入を指示する怒号、そしてそれらを記録する墨の匂い。
そこにあるのは、次の戦、次の勝利だけを求める剥き出しの活力だった。
しかし、その殺伐とした書院に、あまりに不釣り合いな「香り」が運び込まれた。
その殺伐とした書院に、あまりに場違いな「香り」が運び込まれた。
「信長様。京の公家衆より届けられた先触れへの返状、整理いたしました。ご確認いただけますでしょうか」
台帳を抱えた丹羽長秀様――五郎左様が、信長様の前で静かに膝を突いた。
彼の手元にあるのは、上質な紙に流麗な文字で綴られた文の数々。それらは焚きしめられた香の残り香を漂わせ、戦の気配に満ちたこの城にあって、ひどく現実味を欠いた空気を纏っている。
信長様は、広げられた近畿の地図を指先でなぞりながら、視線も上げずに短く応えた。
「読め」
「は。……まず、山科家より。上洛の儀に際し、朝廷への献上金として一万貫。加えて、特定の門跡への寄進、果ては行列に供するべき装束の布地や、随行する家臣の席次に至るまで、細かく『しきたり』が指定されております。さらには……」
長秀様が淡々と読み上げる内容は、どれも目を剥くようなものばかりだった。
「京への入り口ではこの色の旗を掲げよ」「信長様の輿の高さはこれこれの寸法を守れ」といった嫌がらせに近い作法の強要から、暗に「銭」を要求する婉曲な表現まで。
実務家である長秀様の声には、隠しきれない困惑と不満が滲んでいた。
「これらをすべてまともに呑めば、今回の遠征予算の三割が、ただの『体面』のために消えていく計算にございます。
信長様、いかがなさいますか。彼らは織田を、上洛という好機に現れた都合の良い金主と見なしているようですが」
長秀様の問いかけに、信長様はようやく地図から指を離した。
その瞳は、止まることを知らない猛禽のそれだ。
「無益だ。長秀、俺が槍を振るって勝ち取った富を、あのような連中の言葉一つで差し出す道理はない。しきたりを語る口があるなら、槍を持って門の警護でもさせておけ」
信長様の返答は、合理的だが極端だ。
確かに、何も生み出さない「儀礼」に大金を投じるのは経営的には損失でしかない。
だが、京の世論を敵に回し、朝廷という権威から『無作法な田舎者』という烙印を押されれば、その後の近畿統治のコストは跳ね上がる。
(……史実よりも早い上洛。このまま力任せに踏み込めば、信長様は京の街と致命的に衝突してしまう)
襖の陰でお茶の支度をしていた私は、意を決して二人の会話に割り込んだ。
「恐れながら、信長様。長秀様がお困りのその件、少し視点を変えてみるのはいかがでしょうか」
信長様と長秀様の視線が、同時に私に向けられた。
「帰蝶か。視点を変えるとは、どういう意味だ」
「はい。長秀様、公家の方々がこれほどまでに織田に縋るのは、恐らく、彼らが各地に持つ『荘園』からの年貢が、現地の武士たちに横領され、一向に京へ届かなくなっているからではないでしょうか」
私の推測に、長秀様がはっとしたように目を見開いた。
「……荘園の未進。なるほど、確かに筋が通ります。名門の看板はあれど、実効支配する『力』がない。
彼らは法的には広大な土地の所有者であっても、実態は日々の暮らしに困窮している。
だからこそ、信長様という強き武士が京へ入るこの機を、一時の見舞金をむしり取る千載一遇の好機と捉えているのですな」
「ならば、彼らに銭を一方的に与えるのではなく、我らの方から、彼らの『年貢の取り立て』を請け負うと持ちかけるのです」
長秀様が、怪訝そうに目を細めた。
「取り立ての請け負い、でございますか」
「はい。公家の方々には、『織田に徴収の一切を委ねる』という公的な書状を書いていただきます。我らはその正当な名分を掲げ、織田の武力と、すでに整えつつある伝馬の網を用いて、各地で滞っている年貢を確実に回収するのです。
そして、そこから警護の費用や運搬の手間……いわゆる『口銭』を差し引き、残りを公家へ届けるのです」
当時、荘園の年貢を現地でかすめ取る国人たちは、幕府の命令さえ無視していた。
だが、今の織田家には、それを強制的に実行するための圧倒的な軍事力と、情報の流れを掌握する組織力がある。
「公家の方々からすれば、今までは一文も手に入らなかった年貢が、織田に任せるだけで確実に手元に届くようになります。
口銭を引かれたとしても、彼らにとっては棚からぼた餅。織田を『無作法者』と罵るどころか、自分たちの生活を守ってくれる唯一の『救世主』と崇めるようになるでしょう」
長秀様が、はっとした表情で私の言葉を反芻した。
実務の天才である彼には、この提案が持つ本当の価値がすぐに伝わったようだ。
「……なるほど。これは単なる施しではございませぬな。
我らが『公家の代行者』として、各地の不届きな国人どもに干渉する、絶好の大義名分が手に入る。
信長様、これならば、上洛の街道沿いにある領地や関所を、戦わずして織田の息のかかったものに作り変えることができます」
「……面白いな」
信長様が、短く笑った。その笑みは、
新しい獲物を見つけた際の、冷徹で愉悦に満ちたものだ。
「公家の腐った看板を、俺の槍を振るう理由に作り変えるか。長秀、この案、すぐにでも形にせよ。
藤吉郎に伝えろ。銭をバラ撒くのではない。京の連中に、『織田の槍を借りる』契約を結ばせてこいとな」
「承知いたしました。すぐに藤吉郎を呼び、交渉の段取りを。
……帰蝶様、これは実に見事な策にございます。礼銭を払う側から、利を吸い上げる側へ回るとは。
長年、公家たちの未進に頭を抱えていた諸国への、これ以上ない牽制にもなりますな」
長秀様の表情に、ようやく晴れやかな色が差した。
信長様は、迷いのない足取りで再び地図へと歩み寄った。
「止まってはおられぬ。長秀、藤吉郎を京へ飛ばせ。年貢の取り立てを名目に、京までの街道沿いの連中に、どちらが真の主か、その身に刻ませてやる」
信長様は、決して歩みを止めない。 京のしきたりや公家の我儘に翻弄されるのではなく、それらすべてを「織田の仕組み」という奔流に飲み込み、自らの進軍を正当化する燃料に変えてしまう。
史実を大きく前倒しにした歴史の加速。その裏側で、私たちは「武力」という暴力的な力に、「経済」という名の法的根拠を接ぎ木しようとしていた。
(ふう……。なんとか、無駄な出費を『利権への投資』に組み替えられそうね)
私は、少しだけ軽くなった長秀様の背中を見送りながら、冷めかけた茶を一口啜った。
岐阜の城から、一見すると「公家のための借金取り」とも取れる、しかしその実、日の本の経済構造を根底から塗り替える先遣隊が、京に向けて放たれようとしていた。
戦は、戦場で始まるのではない。
帳簿の上で、そして人々の「依存」の連鎖の中で、すでに始まっているのだ。
「さて、次は京での為替の仕組みを考えないと。公家たちが年貢を米のまま受け取るのは不便でしょうから、織田が発行する預かり証で、京の市場で何でも買えるようにすれば……」
私の独り言に、去り際の長秀様が、感心したような、あるいは少し呆れたような苦笑いを浮かべたのが見えた。
織田家という荒々しい新興勢力が、京という魔窟を「合理性」という名の槍で突き崩す。その歴史の歯車が、異様な速度で回り始めていた。




