第26話:藤吉郎と十兵衛
奥書院から出てきた十兵衛光秀様の、あの死人のような顔といったらなかった。
わしは廊下の隅で息を潜めておったが、ありゃあ美濃の名門だとか足利の権威だとか、自分がこれまで命懸けで守ってきた古い「正しさ」を根こそぎ打ちのめされた男の顔だ。
そんなわしを、血相を変えた帰蝶様が呼びつけた。
あの御方は、時にお館様より恐ろしい気迫を放つからかなわん。
「藤吉郎様。お願い……明智様の御心を救ってきて」
帰蝶様は、わしに一束の書状を押し付けた。そこには、あの方独特の細かな筆致で、十兵衛様の気性や、お館様のお言葉をどのように「言い換えて」伝えるべきかが、そして最後には具体的な問答までもが恐ろしいほど克明に記されていた。
かつて道三様から人心掌握の機微を教わったわしから見ても、帰蝶様のこの「人の心を読み解く力」は、もはや神仏の域に近い。
帰蝶様の切実な訴えを聴き、わしは腹を括った。かつて道三様は、わしにこう説かれた。 『高貴な人間を落とすなら、卑しき身分を晒して相手の油断を誘い、懐に入り込め。だが、心の中では常に相手の心の機微を冷徹に見定め、操る糸を手放すな……』その教えを、今こそ使う時だ。
◆◆◆
その夜、わしは城下の宿坊で一人、灯明を眺めていた十兵衛様を訪ねた。
帰蝶様から授かった名酒と、十兵衛様が深く愛しておられると聞く和歌の古書を抱えてな。
「……何の用だ、木下殿。私のような、無能な『欠陥品』に、もう用はあるまい」
十兵衛様は、こちらを見ようともせず、低く沈んだ声で言った。
その声を聞いて、わしは確信した。由緒正しき名刀のような御仁だ。
だから名門の生まれとしての矜持が強い分、その拠り所を否定された傷が深く膿んでおらっせる。
「わはは! 欠陥品だなんて、とんでもねえ。わしのような地を這う猿からすれば、十兵衛様は眩しすぎて直視できんほどの御仁にございますぞ。まずはこれ、お近づきの印に一杯。殿から預かった極上の酒にございます」
わしは、まるで殿の使いであるかのように、うやうやしく酒を注いだ。
「酒か。……織田殿は、足利の権威を『腐った根』と切り捨てた。そのような男から受ける酒などない」
十兵衛様が吐き捨てるように言った。わしは、帰蝶様の書状を頭に浮かべ、間髪入れずに返した。
「それは、お館様が十兵衛様の『知恵』を誰よりも頼りにしておられるからだあ。十兵衛様、お館様はね、腐った根に水を注ぐ無駄を嫌っておられるだけで、新しい根を張るための『鍬』を探しておられるのだに。その鍬こそが、十兵衛様、貴方様なのでございます」
ようやく十兵衛様が、わしを見た。
その目は、侮蔑と困惑が混ざり合っておった。
「私が、鍬だと……? 私は幕府の使者だぞ。道具のように扱われる覚えはない」
「道具ではございませぬ! 盟友にございます! お館様はね、ご自分に対等に打ち返してくる十兵衛様の才を認めたからこそ、本気でぶつかった。あれは期待の裏返しなんだ。自分と同じ景色を見られる男だと、そう思ったからこそ、あのような言葉になったのでございます」
十兵衛様が、わずかに眉を動かした。わしは、さらに畳みかける。
「十兵衛様は『法は約束事だ』と仰ったと聞きました。お館様は、その約束に『中身』を伴わせたいだけなのです。十兵衛様ほどの御仁なら、お館様が出した無理難題さえも、幕府の威光を損なわずに解決する『妙手』を編み出せると……そう確信しておられる」
実際に殿がどう考えておられるかはわからん。だが、こうとでも訳してやらねば、この古めかしい名刀は、絶望のあまり自らを折っちまうかもしれねえ。
わしは畳に額を擦り付けるようにして、帰蝶様から託された「古書」を差し出した。
「これを見てくだされ。殿は、『十兵衛様ほどの教養がなければ、この書の真の価値はわからぬ。わしのような無学な者が届けるのは不敬だが、どうしても彼に読んでほしい』……そう仰っておらっせましたぞ」
十兵衛様が、震える手でその書を手に取った。殿がそんなことを言うはずもにゃあが、十兵衛様はまだ殿とは二度しかお会いしておられぬ。わしの言葉を疑いつつも、そこにわずかな「救い」を見出そうとしておるのが、その手の震えでわかった。
「……十兵衛様、これからは天下に殿の『理』が広がっていくに違いありません。じゃが、その『理』を世に浸透させるのは、十兵衛様のような方が持つ『法』と『教養』にございましょう。お二人が揃ってこそ、この国に真の花が咲くのだに」
十兵衛様が、ふっと小さく笑った。
「……木下殿。貴殿は、不思議な男だ。あの冷徹な主君に仕えながら、なぜそのように……人の情を語れる」
説得は上手くいったに違いねえ。
だがわしは、目の前の十兵衛様を説得できた達成感よりも、書状を渡してくれた帰蝶様への恐ろしさで頭がいっぱいじゃった。
帰蝶様から受け取った書状に記されていた、もし明智様が「こう言ったら」、貴方は「こう返せ」という、問答の控えの通りに話が進んだからだ。あの奥方様は、一体何者なんだあ……。
◆◆◆
翌朝、藤吉郎様から「十兵衛様が、三日後に織田と幕府の利を両立させた案を持参する」という報告を受けた。廊下でその言葉を聞いた瞬間、私は崩れ落ちるように膝を突いた。
(……助かった。これで、最悪のシナリオの一歩手前で踏みとどまれたわ)
藤吉郎様の「意を汲む術」と、斎藤道三譲りの人心掌握。それがなければ、今ごろ光秀様の心の中には、消えない恨みの火が灯っていたはずだ。冷や汗で濡れた手のひらを袴で拭い、私は大きく息を吐き出した。
だが、安堵の時間は短かった。
「帰蝶様、失礼いたします」
穏やかながらも重みのある声と共に現れたのは、丹羽長秀殿――通称、米五郎佐であった。彼は織田家の家政を一手に引き受け、米の如く欠かせぬ働きをすることからそう呼ばれる、誠実そのものの実務家である。
「五郎佐様、何かあったの?」
「は。京の公家衆からも、入京の儀の調整を名目とした文が届き始めております。……不備なきよう台帳と照らし合わせておりますが、彼らの要求、銭の多寡以上にその意図を測りかねるものが多く、少々頭を悩ませております」
長政殿が差し出したのは、香の匂いが染み付いた、慇懃無礼な書状の束であった。
私はそれを受け取り、またしてもこめかみを指で押さえた。
上洛という巨大な不採算事業との折衝が山場を迎える中。今度は、雅な言葉の裏に深い欲を隠し、織田を食い物にしようとする「京の魔窟」が、私を待っている。




