第2話:初夜の契約更改(後編) ~まずはその格好をなんとかしなさい~
長い廊下を渡り、私は新婚初夜を迎えるための寝所へと足を踏み入れた。
部屋の隅には、奥ゆかしく行灯の火が揺れ、中央には真新しい布団が二組、仲睦まじく並べられている。 だが、私の目はその布団ではなく、部屋の異様な光景に向けられていた。
(……意外ね)
部屋は、驚くほど整然としていた。
「うつけ」と呼ばれる男の部屋だ。ゴミやガラクタが散乱しているかと思ったが、床には塵一つない。 壁には正確に測量されたであろう尾張の地図。机の上には、分解しかけの鉄砲と、黒色火薬の調合比率を記したメモ。 地球儀のような南蛮渡来の品こそないが、そこにあるのは「技術」と「情報」への飽くなき渇望だ。
乱雑なのではない。「機能的」なのだ。 必要なものが、最短距離で手に取れる位置に配置されている。
(典型的な、理系エンジニアの部屋だわ)
私は重たい白無垢の打掛を脱ぎ捨て、長襦袢一枚になって大きく伸びをした。 首がバキバキと音を立てる。 今日の業務は、前世の謝罪会見3回分に相当する重労働だった。
「……遅いわね」
夫となる織田信長は、広間を出て行って以来、戻ってきていない。 このまま朝まで帰ってこない方が安眠できて助かるのだが――そう甘くはないらしい。 廊下の方から、ドカドカという荒っぽい足音が近づいてくる。
私は慌てて居住まいを正し、三つ指をついて入り口に向かった。 良き妻、深窓の令嬢。その仮面を貼り直す。
パンッ、と乱暴に障子が開け放たれた。
「おい、斎藤の娘」
夜風と共に現れたのは、織田信長。 手には水か何かの入った瓢箪をぶら下げている。彼は部屋の中を見回し、私が平伏しているのを見ると、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……チッ。起きているのか。マムシの娘らしく、寝たふりをして懐剣でも構えているかと思ったが」
「お帰りなさいませ、旦那様」
私は顔を伏せたまま、鈴を転がすような声で答える。 信長はドカッとあぐらをかいて座り、私を値踏みするように睨みつけた。 相変わらず着崩した小袖に、茶筅髷を無造作に結い上げただけの格好。荒くれ者そのものの風体だ。
彼は腰の瓢箪をラッパ飲みすると、口元を手の甲で拭った。
「道三の爺も残酷なことをする。こんな薄汚い尾張のうつけの元へ、大事な娘を売り飛ばすとはな」
「……」
「安心しろ。私は女を抱く気分ではない。貴様も、隙を見て私の寝首をかけと命じられているのだろう? やるなら今だぞ、隙だらけだ」
挑発。 その瞳は、私の反応を楽しんでいるようであり、同時に「どうせお前も、俺を恐れるだけの凡人だろう」という諦めを含んでいた。
私は、黙って首を横に振る。 怯えたように、小さく震えてみせるのも忘れない。
「……ふん、つまらん」
信長は興味を失ったように視線を逸らした。 その瞬間。
「――はぁ」
私は、深い、深い、心の底からのため息を一つ吐き出した。 それは、怯えなど微塵もない、呆れ果てた音だった。
「……何だ?」
怪訝そうに眉をひそめ、再び私を見る信長。 その目の前で、私はゆっくりと顔を上げた。 そして――「良き妻」の仮面を、ゴミ箱へ削除した。
バサリ。 淑やかな正座を崩し、あぐらをかく。 懐から取り出した扇子を、パチン! と音を立てて閉じる。
「茶番は終わりにしましょう、信長様。私も疲れているの」
「……ほう?」
「寝首? かきませんよ。そんな非生産的――いえ、実りのないこと、私がするわけないでしょう」
私は信長を真っ直ぐに見据えた。
怯えも、媚びもない。対等なビジネスパートナーを見る目つきで。
「それに、貴方は『うつけ』などではない。先ほどの広間での発言、そしてこの機能的に整理された部屋……貴方は、極めて論理的で知能が高い」
信長の目が、わずかに見開かれた。 驚いたのだろう。あの暴言を「正しい」と肯定されたことは、今まで一度もなかったはずだ。
「だが――」
私は扇子の先を、ビシッと彼に向けた。
「貴方には致命的に足りていないものがあるわ」
「……何だと?」
「『伝え方の術』と『威光の整え方』よ。特にその格好! まずはそれをなんとかしなさい」
現代風に言うならば、プレゼン力とブランディングがまるでなっていない。
私は信長のファッションを、上から下まで指差した。 半脱ぎの着物。腰にぶら下げたガラクタ。ボサボサの髪。
「伝え方だと……? 」
信長は不審そうに眉を寄せた。
「何だ。その、商人が客を言いくるめるような物言いは」
「似たようなものです。相手に『自分をどう見せるか』という技術のことですよ」
「くだらん」
信長は一蹴した。
「これの何が悪い。袖を通さぬのは、いざという時に刀や槍を振るいやすくするためだ。髪も兜を被った時に蒸れぬよう結っている。腰の瓢箪は水分補給、火種入れは即座に鉄砲を撃つためだ」
彼は理路整然と反論した。
「全てにおいて『理に適っている』。無駄な装飾など戦場では邪魔になるだけ。……貴様こそ、茶の湯にかぶれた公家のように、思考が浅いのではないか?」
なるほど。やはり彼なりの理屈があるわけだ。
徹底した現場至上主義。「いつ襲われても戦える」という機能性を最優先している。
「機能的? ええ、そうでしょうね。野盗や山賊の頭領なら、それで満点です」
「何……?」
「でも貴方は、人間社会の中で生きる『織田家の当主』でしょう? 当の身なりは、それ自体が家臣や領民に対する『媒体』……言葉を使わずして情報を伝える器なのですよ」
「めでぃあ……? 器だと?」
「ええ。簡単な算盤を弾きましょう、信長様」
私は扇子で畳を叩いた。
「貴方がその汚い格好で命令を下したとします。家臣たちは『うつけの世迷言だ』と疑い、動こうとしない。貴方は彼らを動かすために、余計に論理を説いたり、いちいち怒鳴ったり、殴ったりして説得しなければならない」
「……」
「本来なら一言で済む命令に、貴方は毎回、余計な刻と労力を費やしている。貴方は『刀を抜く速さ』という小さな刻を節約するために、『人を動かす速さ』という巨大な刻をドブに捨てているのです」
信長の顔色がわずかに変わった。 「時間」と「無駄」。 せっかちな彼にとって、これほど嫌いなものはない。
「入れに対して出が少なすぎる。……計算が得意なはずなのに、そんな収支の帳尻も読めないのですか?」
「っ……!」
信長は絶句していた。 怒りで震えているのではない。 初めて、自分の論理を、500年先の未来の論理で殴りつけられたからだ。
芸能チーフマネージャーだった私の目から見れば、信長様のバランスシートは最悪もいいところだ。
彼が持っているのは「戦場の合理性」。 対して、私が突きつけたのは、産業革命と情報化社会を経た人類が到達した「生産性」という概念だ。 刀と、レーザー兵器ほどの次元の違い。
並の人間なら理解できずに聞き流すだろう。だが、信長という天才ゆえに、その「未知の兵器」の凄まじさを瞬時に理解してしまったのだ。
彼は自分の格好と、私を交互に見比べる。
単なる見た目の話ではない。「効率」の話として突きつけられたことで、彼の脳内で劇的な価値観の転換――パラダイムシフトが起きている。
「……見た目を整えることが、手間を省き、組織を速く動かす『機能』になると申すか」
「その通りです。人は見た目が九割。馬鹿馬鹿しいと思うでしょうけど、それが人間という生き物の仕組みです。利用できるものは利用するのが、合理的というものでしょう?」
私が説いたのは人間という社会的な動物が持つ、共通のアルゴリズムだ。
信長の瞳に、強烈な光が宿った。 彼は口元を手で覆い、しばらくブツブツと何かを呟いていたが、やがて凶悪な笑みを浮かべた。
「……是非もない。理屈は通っている。貴様、何者だ?」
信長の声から、嘲りが消えた。 代わりに宿ったのは、未知の知識を持つ者への、貪欲な好奇心。
「マムシの娘ではないな。いや、道三ですら、このような発想はせぬ。まるで……未来から来た商人のような口ぶりだ」
「ただの『妻』ですよ。……少しだけ、組織の動かし方に詳しいだけの」
私はニヤリと笑い、本題(交渉)に入る。
「単刀直入に言います。私と契約しませんか?」
「契約、だと?」
「ええ。貴方は孤独です。誰よりも先が見えているのに、誰もその言葉を理解してくれない。だから苛立ち、当たり散らし、さらに人が離れていく悪循環に陥っている」
図星をつかれた信長が、苦虫を噛み潰したような顔をする。 その孤独は、誰よりも私がよく知っている。優秀すぎるがゆえに孤立する、哀れなワンマン社長の姿だ。
「私を使いなさい。私が、貴方の難解な思考を、馬鹿な家臣たちにも分かる言葉に翻訳してあげます。貴方のやりたいことを実現するための、最強の変換装置になってあげる」
私は手をついて、身を乗り出した。 顔と顔が近づく。獣の匂いと、微かな火薬の匂いがした。
「その代わり――私の言うことにも耳を傾けてもらいます。まずはその汚い格好をやめること。そして、家臣への暴言を控えること。……どう?」
重苦しい沈黙が流れる。 行灯の火がパチリと爆ぜた。
信長は私をじっと見つめ、やがて――口元を歪めた。 それは皮肉でも嘲笑でもない。凶悪だが、どこか楽しげな「魔王の笑み」だった。
「……ククッ、ハハハハハ!」
信長は腹を抱えて笑い出した。
「面白い。実に面白いぞ、帰蝶! まさか寝所に押し掛けた妻に、説教を食らうとはな!」
「説教じゃありません。業務改善提案です」
業務改善提案を受けるなら私が信長様をコンサルティングするということ。
「よいだろう! その言葉の意味は分からんが、その契約、乗った!」
信長は立ち上がり、腰の瓢箪を私に放って寄越した。 受け取ると、軽い音がした。
「私の思考を翻訳するか。……できるものならやってみせろ。だが、役立たずと判断した瞬間に切り捨てるぞ? マムシの娘だろうと容赦はせん」
「望むところです。……では、最後に、もう一つ提案をさせてください」
私は瓢箪を置き、最後に一番重要な提案を突きつける。
「今日から寝室は別々にしましょう」
「……何?」
「言ったでしょう? 私は仕事をしに来たのであって、貴方の跡継ぎを産む道具になるつもりはありませんから」
戦国時代において、妻としてあるまじき発言。 世継ぎを産むことこそが正室の最大の責務だ。それを拒否すれば、離縁どころか手討ちになってもおかしくない。 私は袖の中で拳を握りしめ、冷や汗を止めながら言葉を継いだ。
「それに、効率的な業務には、他人に干渉されず脳を休める個室――自分だけの『領域』が必要不可欠なのです」
「てりとりー……?」
信長が眉をひそめる。
「ええ。獣が自分の縄張りを守るように、人間にも『入ってきてほしくない心理的な空間』があるのです。私の『領域』を尊重してください」
数秒の沈黙。 その時間が、永遠のように長く感じられた。 もしここで彼が激昂し、「女風情が生意気な」と力ずくで襲い掛かってきたら、私に抵抗する術はない。物理的な力では絶対に勝てないのだ。
心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに乾く。
けれど、私は真っ直ぐに信長を見つめ続けた。目を逸らせば、食われる。
やがて、信長はニヤリと笑った。
「構わん。議論もできぬ人形を抱くより、貴様と話している方がよほど建設的だからな」
(――っ、よかった……!)
私は内心で、へなへなと座り込みそうなほどの安堵を覚えた。 通った。殺されなかったし、犯されもしなかった。 強気なビジネスパートナーを演じてはいたが、足の震えが止まらなかったのだ。貞操と命を守りきった安堵で、全身の力が抜けそうになる。
これで安眠できる。 私は小さく息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いた。
――その、油断がいけなかった。
「――なるほど」
信長の声が、凍りつくように低くなった。
「え……?」
「獣の縄張り、か。……勘違いするな」
信長が、ぬらりと動いた。 逃げようとする私の腕を掴み、強引に引き寄せる。
「きゃっ……!?」
抵抗する間もなく、私は畳の上に組み伏せられていた。 目の前に、信長の顔がある。 その瞳は、先ほどまでの知的な光ではない。獲物を押さえ込む、支配者としての冷酷で、雄々しい光を帯びていた。
「ノ、信長様、契約と違うのでは……!」
「指一本触れるなとは言われたが、承知した覚えはない」
彼は私の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。 熱い吐息が首筋にかかり、ぞくりと総毛立つ。 先ほどまでの安堵が、一瞬にして恐怖へと塗り替えられる。
「貴様はマムシの娘だ。私の目の届かぬところで何を企むか分からん。……私の思考を翻訳するというなら、私の『領域』から出るな」
「っ……」
言葉を失った。 私が自分を守るために使った「テリトリー」という言葉を、彼は「支配領域」という意味で使い返し、私を囲い込んだのだ。
身動きが取れない。 男の力と重み。理屈で論破したと思っていたが、生物としての力関係は向こうが上だと思い知らされる。 もし今、彼がその気になれば、契約など無視して私を犯すことなど造作もないのだ。 恐怖と、奇妙な熱が腹の底に広がる。
「安心しろ。……貴様が私の役に立つ内は、抱きはせん」
信長は私の頬を指先でなぞると、興味を失ったようにパッと手を放した。
「だが、役立たずと分かれば、ただの腹として使う。……忘れるな」
不敵に笑うと、彼はさっさと布団の一つに潜り込み、私に背を向けて寝転がった。
「『明日の明け六つ』から城内の見回りだ。貴様の言う『手間の無駄』とやら、まずは城の掃除から省いてやる。……寝坊するなよ」
「……は、はい」
私は震える手で着物の襟を合わせ、逃げるように自分の布団に入った。 すぐ隣に、魔王がいる。 背中を向けていても、その圧倒的な存在感が肌を刺すようだ。 手を出さないと言われた。けれど、それは「今は」というだけの話だ。
(……とんでもない男と契約しちゃったわね)
心臓が早鐘を打っている。 それは恐怖なのか、それとも、この危険な男を手懐けることへの武者震いなのか。
こうして、私たちの奇妙な夫婦生活――もとい、織田家改革プロジェクトが幕を開けたのだった。
【本日の業務報告】 ・クライアント(織田信長)との信頼関係構築:一応完了 ・契約形態:業務提携契約(ただし、身柄の拘束を含む) ・次回の課題:オーナーの早朝出勤と、城内環境の5S改善
お読みいただきありがとうございます!
次回からは甘くない新婚生活、もとい「ブラック企業・織田家」の改革がスタートします。 まずは基本の「5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)」から!
▼次回予告 『第3話:魔王様の5S活動 ~城の汚れは心の汚れ~』
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