第25話:終わらない調整
岐阜城の朝は、抜けるような青空に包まれていた。
正門前には、北近江へと向かう壮麗な輿の列が整えられている。織田の至宝、お市様が浅井長政殿のもとへ嫁ぐ――。表向きは慶事であるが、これは織田という組織が近江市場へ進出するにあたって、最も重要な「提携」の布石であった。
「市。……万が一、浅井の小僧が道を誤り、貴様を損なうような真似をするならば、迷わず戻れ。その時は、俺が近江を丸ごと焼き尽くして貴様を回収する」
馬上から信長様が放った言葉は、相変わらず物騒で、そして彼なりの不器用すぎる兄としての情愛に満ちていた。
効率と理屈を最優先するこの男が、わざわざ「焼き尽くす」という多大な経費のかかる報復を口にするのは、彼なりの最大級の身内への甘えである。
「承知しております、兄上。……けれど、私は何があろうと戻りませぬ」
輿の扉から顔をのぞかせた市が、次に向けたのは私への視線だった。その瞳は、先ほどまでの凛としたものとは打って変わり、どこか熱に浮かされたような、怪しいほどの輝きを帯びている。
「義姉上様。私は、貴女様が描き、指し示してくださる『理の世界』を心から信奉しております。この市、北近江の楔となり、浅井のすべてを貴女様への捧げ物として差し出す覚悟にございます。ああ、義姉上様……! 貴女様の見つめる未来のためなら、私は泥を啜ることも厭いませぬ!」
(将来起こる浅井家との問題を解決するためにマネジメント戦略を教えてたら、いつの間にかちょっと変な方向に振り切っちゃったのよね……)
あまりの狂信ぶりに、私は思わず引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
心の突っ込みをよそに、市は恍惚とした表情で輿の中へと消えていく。
こうして、織田家にとって最も強力で、かつ少々思想の偏った「戦略物資」が、北近江へと投下されたのである。
◆◆◆
輿が見えなくなってから半刻も経たぬうちに、岐阜城には新たな「嵐」が舞い込んできた。
時の将軍候補・足利義昭様に仕える、明智十兵衛光秀様だ。
城の奥書院。二度目の対面となる光秀様は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、高貴な奉公衆としての威厳を全身から漂わせていた。その立ち居振る舞いは優雅でありながら、相手を教え導こうとする知識人の矜持を宿している。
「信長殿。先の上杉家を介した武田家への塩の件、聞き及んでおります。敵対する者にすら塩を送り、織田の義を天下に知らしめたその差配……まことに見事。なればこそ、我が主・義昭様も、織田殿のその器をこそ信じておられます」
光秀様が差し出したのは、絹の表紙に包まれた豪華な『要求書』。
彼は堂々と、信長様を教え導く教師のような態度で、その中身を読み上げ始めた。将軍家の使者という自負が、彼の言葉に鋭い棘を与えている。
「一、入京の儀の際、信長殿は将軍の五間後ろを歩み、一分一秒の遅延なく、将軍の歩幅に合わせること。一、将軍が座す御座所は常に特定の花で飾り、専門の香焚きを織田の負担で雇い入れること。一、上洛に供する人足は……」
上洛に際して大量の将軍家からの要求条項。
その中身を読み上げる光秀様の声には、一分の隙もなかった。
「信長殿、この要求書に記された儀礼と諸条件は、乱れた世に足利幕府という古来よりの法を再興するための必然。日ノ本の武士は皆、室町家が定めた法の中で生きております。この要求に応えることこそが、織田の支配をただの暴力に終わらせぬための手続きにございます」
その滔々とした物言いに、私はお盆を抱えながら、襖の陰で頭を抱えた。
光秀様の論理は、この時代の知識人として極めて正しく、かつ隙のないものだったが。
しかし、現代的に例えるなら、かつての栄光に縋る倒産寸前の老舗企業が、勢いのある新興ベンチャーに対し「格付け」でマウントを取ろうとするような、最も危うい営業スタイル。
「明智十兵衛光秀……。一つ問う」
案の定、信長様の声が、冷たく書院の床を這った。
「貴様の言うその法は、真に今、この日ノ本を動かしていると言えるのか?」
「法とは、目に見える武威のみを指すものではございませぬ」
光秀様は、揺らぐことのない強い眼差しで信長様を見据え、静かに、しかし断固として言い放った。
「日ノ本の諸大名が互いを武士として認め、その領地を安堵し合うための『約束事』にございます。その約束を蔑ろにすれば、織田殿がどれほどの富を築こうとも、それはただの略奪品。
織田殿自身も、いつか現れるより強き力に飲み込まれるだけの、ただの賊へと成り下がりましょう。
足利家という重石を外した後に訪れるのは、理屈なき果てなき闘争のみ。それこそが、天下の歩みを最も遅滞させる要因になるとはお考えになりませぬか」
国家という巨大なシステムの安定を説くその言葉には、確かに重厚な説得力があった。
しかし、ここで静かに座っていた竹中半兵衛が、光秀様の言葉を拾うようにして、冷徹な手つきで帳面を開いた。
「先ほど、光秀殿は我が方の塩の件を義とお呼びになりましたが……。光秀殿、あれは義理立てなどではございませぬ。武田の経済を織田の供給に依存させ、戦わずして生殺与奪を握るための仕組みにございます。
……我らは既に、名声や過去の約束という不確かなものではなく、実利と理屈という新しい基準で世を動かそうとしております」
半兵衛は、淡々とした口調ながら、その言葉には研ぎ澄まされた刃のような鋭さがあった。
「同様に、この要求書にある数々の儀礼。制約。これらは不測の事態への即応を妨げるばかりか、体面を整えるためだけに、我らがこれまでに積み上げてきた蓄えの、十に一をも越える額が瞬時に消えていく計算にございます。
光秀殿、この蓄えは領民の汗と知恵の結晶。それを実りのない虚飾に使い果たすことは、天下静謐という大業を阻害する明白な不備にございます」
「不備、と……」
光秀様は、半兵衛の言葉を噛みしめるように繰り返した。その顔に浮かんだのは動揺ではなく、信じがたいものを見るかのような深い憂慮であった。
「半兵衛殿は、法というものがただの銭の計算で成り立つとお思いか。織田殿、この国の蓄えを、ただ城を高くし兵を増やすためだけに使うのが貴殿の理か。足利家という『根』があるからこそ、織田という『花』が正当なる美しさをもって天下に咲き誇れるとはお考えにならぬのか」
足利幕府という「根」がなければ、織田という「花」もいずれ枯れる――光秀様の言葉には、一国の法を預かる者としての矜持と、未来への洞察が宿っていた。
だが、信長様はその言葉を、瞬時に切り捨てた。
「花を咲かせるための根が、既に腐り果てていると言っているのだ。腐った根にどれほど水を注いでも、木は再生せぬ。貴様の持ち込んだ儀礼は、我が家の蓄えを食いつぶすだけの重荷にすぎぬ。
――答えは三日後だ。それまでに、機能的な妥協案を持参せよ。できぬなら、将軍など後から勝手について来ればよい」
信長様の最後通牒。
(……ああ、ダメだ。この光景、私は知っているわ。私も前世で、古いしきたりを重視する上層部と、合理化を急ぐ現場の間で、何度こうして板挟みになったことか。
光秀様は、将軍義昭様という理不尽な上司と、信長様という冷徹な取引先の間に立たされているだけなのよ……!)
明智光秀は、間違いなくこの時代の最高峰の「知識人」であり、「実務家」だ。
美濃の名門・土岐氏の流れを汲む明智家の血筋。和歌や連歌を解する教養、医術から鉄砲術に至るまでの知識を持ち、さらには幕府と諸大名の間を繋ぐ高度な交渉能力。これらすべてを兼ね備えた、まさに当代随一の「磨き上げられた一級品」の士に他ならない。
だが、有能であるからこそ、信長様と半兵衛が掲げる「新しい理」と、自らの掲げる既存の秩序、どちらに正統性があるか、半ば気づいてしまったのだ。
自分が信じ、誇りとしてきた足利幕府の正義が、彼らの前では一顧だにされない不採算な遺物として切り捨てられていく。その絶望と、自分の拠って立つ大地そのものが崩される恐怖。
(二度目の対面で、この二人の決定的な断絶が、光秀様の心に刻まれてしまった。有能なエリートだからこそ、自分の存在価値そのものを全否定されるような信長様の合理性が、耐えがたい恐怖となって彼を蝕んでいくんだわ……!)
私は、お茶を運ぶフリをして慌てて割って入った。
「殿、光秀様! ささ、お茶が入りましたわ。一度喉を潤してくださいませ」
私は極上の微笑みを貼り付け、光秀様の前に茶を置いた。 光秀様は、震える手で茶碗を握り、自らの正義を全否定された衝撃に打ち震えている。
私は、このエリート実務家――光秀様に、深い同情を覚えた。
彼は優秀なのだ。義昭様という古い組織を守ろうとし、それを最新の織田流の仕組みに適合させようと、身を粉にしている。
だが、このままではいけない。信長様と直接話し続ければ、光秀様はいつか絶望し、この織田家という組織を焼き払う側に回ってしまう。
「殿。光秀様が仰るのは、いわば将来のための必要な費えにございますわ」
私は信長様の袖をそっと引き、明るい声を向けた。
「義昭様という看板を一度完璧な形で京にお披露目すれば、その後の統治にかかる手間は劇的に下がります。
半兵衛殿の仰る十に一を越える蓄えの消費も、後の人心掌握の成功による反乱防止という長期的な利益として考えれば、十分に引き合う数字ではありませんか?」
半兵衛が、眉をピクリと動かした。
「……帰蝶様。不確定な未来の利益を、現在の確実な損失と相殺するのは計算としては不健全にございます。ですが、その看板料の半分を、将来の幕府領の税から差し引く形で担保できるなら、検討の余地はございますね」
さりげなく、当たり前のように滑り込まされた織田家に有利な折衷案。しかし、破談することに比べれば、辛うじて面目は保たれる。
光秀様は、屈辱と安堵が入り混じったような、複雑な表情で私を見た。
「……検討して、まいります。義昭様に……その旨を……」
光秀様は、亡霊のような足取りで書院を去っていった。
私はその背中を見送りながら、心の中で激しく頭を抱えた。
(……これは、 物理的に引き離さないとダメ! 光秀様を今の上手くいきすぎてる信長様の直属になんてしたら、将来確実に謀反を出されるわ!)
私は、お盆をバチンと叩いて、信長様に向き直った。
「殿、これからの上洛、光秀様との窓口には、木下藤吉郎様を据えるのが最善かと存じます」
「藤吉郎だと?」
信長様が訝しげに眉を寄せた。
「はい。藤吉郎であれば、殿の『理』を、光秀様の好む『情』や『体面』にうまく訳して伝えることができましょう。織田の実利を確実に引き出せるはずです」
(お願い信長様、イエスって言って! 藤吉郎様っていう最高の人材がいるじゃない! 彼に丸投げ……いえ、任せるのが一番なのよ! 私たちの生存戦略のために!)
信長様は少し考え込んだが、私の必死な形相に押されたのか、短く「勝手にせよ」とだけ答えた。
(よし! 隔離成功! 死なない、これでまだ死なないわ私!)
私は、さっそく光秀様と藤吉郎を引き合わせるための、根回しを始めることに決めた。
お市が近江で現場を固めてくれている間に、私はこの岐阜で、織田家最大のリスク因子である明智光秀様との「終わりの見えない調整」という名の戦いに身を投じた。
上洛という、戦国史上最大の提携事業。その裏側で、胃に穴が開くような日々が幕を開けたのである。




