第24話:お市の方
岐阜城と名を変えた金華山の頂からは、濃尾平野の隅々までが見渡せた。
斎藤道三が、そして斎藤義龍が差配したこの地は、いまや織田信長という異端の主の手により、日ノ本のどこにもない「理」で動く巨大な仕掛けへと変貌を遂げている。
城内の一角。静寂に満ちた奥書院で、一人の姫が算盤と書状を前に、静かに目を閉じていた。
織田信長の妹、お市。
誰もが彼女を「絶世の美女」と称える、織田の家門を飾るもっとも美しい姫。
今、彼女の周りには、間近に控えた婚姻のための品々が整えられていた。華美な着物や嫁入り道具の陰に隠されるように置かれているのは、近江の街道を網羅した詳細な絵図、そして義姉・帰蝶や木下藤吉郎から授かった、人心と銭の動きを読み解くための秘かな覚書である。
北近江の主、浅井長政への入輿。
世間はその婚姻を、織田家が上洛の路を確保するための政略結婚だと信じている。だが、お市にとっては、単なる添い遂げではない。
それは、彼女の持つ狂信のための、極めて重要な務めの始まりであった。
彼女が手元の算盤を弾く速度は、並の勘定奉行を遥かに凌ぐ。お市にとって、絶世の美貌も相手の懐へ潜り込むための「資材」に過ぎなかった。
◆◆◆
私がまず「人の動かし方」を学んだのは、木下藤吉郎殿からでした。 あれは美濃が平定されて間もない、汗ばむような初夏の日のことにございます。
「お市様、本日は少しばかり泥にまみれていただきますぞ。城の上からでは見えぬ『銭のにおい』を嗅ぎに参りましょう」
藤吉郎殿は、いつものように猿を思わせる卑屈な笑みを浮かべながら、私を城下の市場へと誘い出しました。この御仁、私と目が合うたびに「お、お美しい……」と鼻の下を伸ばし、耳まで真っ赤にするようなお方ですが、その眼光は時折、身の毛もよだつほどの鋭さを見せるのです。
二人とも身分を隠し、粗末な木綿の着物に身を包みました。藤吉郎殿が私に教えたのは、地図や書状には決して記されぬ「現場」の真実にございました。 彼は私を、一番汚い煮売り屋の片隅へと連れて行き、そこに集う人足たちを指差したのです。
「お市様、あやつらを見てくだされ。一見、怠けているように見えますが、あの中で誰が一番の発言権を持っているか分かりますかな?」
私が戸惑っていると、藤吉郎殿は一人のある男を顎で示しました。
「お市様、あそこの『あやつ』を見てくだされ」
泥にまみれて土を運ぶ人足たちの中にいた、一見して冴えない小柄な男。
肌は陽に焼けて赤黒く、使い古された手拭いを頭に巻き、他の者と同様に黙々と土を担いでおります。筋骨隆々とした大男でもなく、声を張り上げて指図しているわけでもございません。
「あやつが、あの一団の『芯』にございます。一番腕力がある者でも、一番仕事が速い者でもありませぬ。ですが、休憩の刻に真っ先に冷えた水を受け取り、誰かに分け与えるのはあやつ。
仕事の合間に、仲間の肩を無造作に叩いて回るのもあやつ。……そして何より、現場の役人が目を離した隙に、仲間たちが真っ先に視線を送るのが、あの男にございます」
藤吉郎殿は、獲物を見定めるような目で続けました。
「あやつは、一番『他人の不満』を吸い上げ、懐に溜め込んでいる者。あのような小者にこそ、皆が寝静まった頃に酒の一升も届け、将来の安心を約束してやるのです。
それだけで、千人の人足は兄上のために命を懸けて動き出します。……理屈だけでは人は動きませぬ。
人は『自分を正しく見てくれている』という安堵と、小さな『得』、そして何より『面目』で動くものにございます」
理屈を並べる前に、まずは相手の「腹」を満たし、「面目」を立てる。
その泥臭い人心掌握の術こそが、巨大な組織を底辺から支える楔なのだと、彼は熱を込めて語りました。おべっかばかりの彼が、その時だけは一人の恐るべき「師」に見えたことを、今でも鮮明に覚えております。
◆◆◆
藤吉郎殿が説いたのが、泥にまみれ、人の心の澱をすくい上げる「地を這う情」であるならば、義姉上――帰蝶様が私に授けたのは、遥か高みから世界の形を鳥瞰し、あるべき姿を指し示す「天を駆ける理」にございました。
かつての私は、織田という家門を飾るための、物言わぬ「籠の中の鳥」に過ぎませんでした。 美しい装束を纏い、庭に咲く花を愛で、いつか兄上の望む場所へと運ばれていく。それが姫というものの幸せであり、定めなのだと疑うこともございませんでした。飛ぶための羽があることさえ忘れ、誰かに与えられる餌を待つだけの日々。
そんな私の閉ざされた籠の扉を壊し、外に広がる果てしない「天」を見せてくださったのが、帰蝶様にございます。
「市、いい? 貴女のその美しさは、天が与えた強力な『武器』よ。けれど、武器は磨かなければ錆び、使い道を誤れば自分を傷つける。貴女は、誰かに守られる花でいたい? それとも、この国という大きな庭を造り替える『主』になりたい?」
それは同時に貴女が自分の主になるということでもあるわ。
義姉上はそう仰って、私の前に複雑な算盤と、細かな文字が躍る「理の書(帳簿や地図)」を広げられました。
兄上が圧倒的な熱量を持って突き進む「炎」であるならば、義姉上はその熱を余さず力へと変えるための「炉」を築くお方にございました。
兄上が望む、一見すれば無茶な夢。それを実現するための緻密な仕組みを、義姉上は誰に誇ることもなく、淡々と、されど完璧に組み上げていかれるのです。
正直に申せば私は、義姉上に心酔しておりました。
彼女が説く「理」によって、領民が飢えから救われ、商人が活気付き、織田の家が日ごとに強固なものへとなっていく様を目の当たりにするたび、私の内側にあった古い殻が音を立てて崩れ去るようでした。
義姉上の隣に立ち、彼女が見つめている「世の真理」を共に翔けたい。そのためならば、私は古い自分を捨て、彼女が望む「新しい器」に生まれ変わることに、一片の迷いもございません。
義姉上の教えは、厳しくも美しいものでした。
「市、よく見て。これが北近江、浅井長政殿の領地よ」
義姉上が広げたのは、山河の美しさではなく、流通の路と各勢力の利害関係が緻密に書き込まれた、見たこともない地図でした。
「長政殿は、若くして家中の信望を集める最高の指導者。誠実で、義に厚い。けれど市、その『義』こそが、時として組織を滅ぼす劇薬になるのよ」
「……義が、組織を滅ぼす、でございますか?」
私が問い返すと、義姉上は少しだけ寂しげな微笑を浮かべられました。
「そう。彼は先代からの『朝倉家との恩義』に縛られている。織田が天下への路を切り開く時、その古い契約が必ず障壁となるわ。……情に厚すぎる組織は、往々にして外からの新しい理を拒絶し、共倒れの路を選ぶ」
その時、義姉上の瞳に宿ったのは、切実なまでの焦燥にございました。
それが何に対する恐れなのか、私には分かりませぬ。けれど、義姉上はいつも、兄上の進む道の先に「目に見えぬ巨大な穴」があることを予見し、それを埋めるために必死に知恵を絞っておられるように見えました。
岐阜に明智十兵衛様というお方が来られた際の、義姉上のあの隠してはいたけれど尋常ならざる狼狽。あれもきっと、義姉上に見えている「不吉な理」が、あのお方と結びついていたからに相違ありません。
(義姉上を、独りにはさせない。帰蝶様が独りで背負おうとしている『織田の危うさ』を、私が、この手で支えたい)
地を這い、泥にまみれた人間の弱さと欲を知る藤吉郎殿の「情」。
そして天を駆け、世の営みを高くから眺め、最適に導こうとする義姉上の「理」。
この相容れぬ二つを両翼として授けてくださったのは、義姉上が私を愛してくださっているからだと確信しております。私に「戦う力」を授けることで、私をもまた、予測のつかぬ乱世の濁流から救い出そうとしてくださっているのだと。
「市、これは織田の理を北近江へ根付かせるための、貴女にしかできない『戦い』よ。長政殿を説得し、朝倉との腐れ縁を、浅井の未来のために断ち切らせる。……貴女に、織田と浅井を繋ぐ『盟約の要』になってほしいの。」
義姉上は私の手を強く握られました。その手は、震えておりました。常に冷静に「理」を説き、兄上の無軌道な熱量を制御してきたあの方が、一人の妹を難敵の渦中へ送る姉として、震えておられたのです。
私はその震えを、自分の熱い心に刻みました。
私にとって、浅井家への入輿は、単なる兄上の政の道具になることではございません。それは、最愛の義姉上と共に、この国を「理」によって救うための、至高の使命。
夜明かりに照らされた算盤を、私は一弾きいたしました。
パチリ、と。 古い自分が弾け飛ぶような、清々しい音が書院に響きます。
「……承知いたしました、義姉上。北近江という地で、織田と浅井が真に響き合えるよう、私がその『要』を務めてまいりましょう」
籠の中から天を仰ぎ、私は静かに微笑みました。
藤吉郎殿の情を地に這わせ、帰蝶様の理を天に翔け。 この日、私は一人の姫であることを捨て、織田家の交渉官としての魂を、その胸に宿したのでございました。




