第22話:天下布武と虎の躾
稲葉山城の天守から見下ろす濃尾平野は、冬の気配を帯びながらも、新しい時代の熱に浮かされているように見えた。
義龍様という「旧時代の重圧」が消え、父・道三様が最高顧問として後方に控える今、この城はもはや斎藤家の残影ではない。
「……この地を井ノ口とは、二度と呼ぶな。この地を、今日よりはこう呼ぶ」
信長様が、広間の中心で真っ白な紙に筆を走らせた。
墨の香りが立ち込める中、そこには力強い二つの文字が刻まれていた。
『岐阜』
「周の文王は『岐山』より起ちて天下を平らげたという。これより、ここは天下平定の拠点――岐阜として生まれ変わる」
それは美濃という一地方の記憶を塗り替え、この地を「天下の起点」へと再定義する、示威行動。
さらに信長様は、傍らに置かれた新しい印章を手に取った。四角い印面には、これからの組織理念が刻まれている。
『天下布武』
「武の力をもって、天下に新しい規格を布く。……帰蝶、これからはじまるのは、ただの土地の奪い合いではないぞ」
「……ええ。古臭い道理を焼き払い、新しい法でこの国を統合する。その覚悟、しかと受け止めましたわ」
私がその印影をまじまじと見つめていた、その時だった。
広間の空気を切り裂くように、北信濃からの伝令が飛び込んできたのは。
「永禄四年九月十日、川中島八幡原にて、武田信玄と上杉謙信が激突! 両軍数千の死者を出す、未曾有の大戦にございます!」
報告を受けた広間の静寂は、義龍様を倒した祝祭の気分を一瞬で凍りつかせた。 一五六一年、第四次川中島の戦い。 信玄は実弟・典厩信繁を失い、軍師・山本勘助までもが討死したという。まさに、共倒れに近い泥沼の消耗戦。
「……おぉぉ! これぞ天の配剤!」
静寂を破ったのは、柴田勝家様の雷鳴のような声だった。勝家様は拳を握りしめ、顔を真っ赤にして信長様へ詰め寄った。
「武田は屋台骨である副将と軍師を同時に失い、指揮系統は瓦解しております。兵の士気が落ち、国衆が動揺している今こそ、全軍をもって信濃へ攻め込むべきです! 虎が傷を癒やす前に、その息の根を止めましょうぞ!」
武人としての勝家様の勘は鋭い。混乱に乗じるのは兵法の常道だ。 だが、それに対する信長様の反応は、短く、そして冷酷だった。
「……権六(勝家)。貴様は、信濃の雪を食って行軍するつもりか?」
「は……?」
「じきに冬が来る。雪深い山道で、二万の兵糧をどう運ぶ。貴様の言う『機』とやらは、我が軍を飢え死にさせるための罠か?」
信長様の突き放すような指摘に、勝家様が言葉に詰まる。そこへ、半兵衛様が静かに、しかし容赦のない追撃を加えた。
「勝家殿……、今の武田を力で叩くのは下策にございます。信玄は弟を失い、家臣団は結束を強めておりましょう。手負いの虎を狭い山道で追い詰めれば、死に物狂いの反撃を受け、我が方の被害は計り知れません。そもそも、今川や北条が信玄への塩の供給を止めておる今、武田は戦わずとも枯れていく。わざわざこちらから、彼らに『共通の敵』という団結の理由を与える必要がどこにありましょうか」
「そ、それは……しかし、座して待てば敵は立ち直る!」
「立ち直るための資材を断つなど、いくらでもやりようはあります。雪を味方につけられぬまま進軍し、越後の上杉とも背後を争うような愚は、織田が踏むべき路ではございません」
(……なんでこの人たちは普通に意見を交換することができないの?)
ズバリと切り捨てるような上司の指摘、チクチクと嫌味ったらしく間違いを指摘する天才同僚。二倍になったロジハラ要員に挟み撃ちにされ、勝家様は顔を青くしてわなわなと震え始めた。
いけない。このままだと勝家様まで血を吐いて死んでしまう。
「殿、半兵衛様! そのあたりで。……勝家様、その『好機を見逃さぬ鋭い眼力』、流石でございますわ」
私はすかさず、用意していた温かい茶と甘味を皆の間に置いた。
「権六様、まずはその逸るお心を、このお茶で落ち着けて。殿も半兵衛様も、勝家様がこれほどまでに織田の行く末を案じておられるのです。その熱意を、もっと別の『勝ち筋』に活かす道を考えましょう? さあ、お饅頭を召し上がって」
私はニコニコと笑いながら、信長様の隣に立って「詰めすぎ厳禁」の圧をかけた。
けれど、実際ここで武田に攻勢を仕掛けるのは悪手に違いなかった。深手を負った虎ほど恐ろしいものはない。信玄は間違いなく、失った人的資源を補填するために、より豊かな土地――すなわち、この美濃を、飢えた瞳で睨みつけるはずだ。
私は、軍議が終わった後の深夜、信長様と二人きりになった隙を見計らい、ある「提案」を切り出した。
◆◆◆
「……信玄に、塩を送りましょう」
灯明の火に照らされた信長様が、意外そうに眉を上げた。
いまや武田家は、今川・北条からの経済制裁(塩留め)により、生命線である塩の供給を絶たれている。史実ではここで上杉謙信が「義」をもって塩を送り、美談となるはずだが――。
「あの虎に、態々息を吹き返させるつもりか?」
「いいえ。これは戦わずに、武田を織田の支配下に置くための種蒔きですわ。現在、甲斐の武田家は今川や北条によって『塩留め』をされ、民も兵も喉が干らびております。幸い、我らには尾張の豊かな海があり、それを信濃へ運ぶ美濃の路も今や手中にあります」
久しぶりのプレゼンテーションの時間。
信長様は黙って私の話を聞いている。
「今こそ、この路を使って大量の塩を贈るのです」
「……敵に情けをかけて、何になる」
「『情け』ではございません。これを大々的に宣伝し、『織田信長は私情で経済を止めぬ、器の大きな指導者である』という看板を、京の朝廷や諸国へ掲げるのですわ」
単なる慈善ではない。力で領土を奪うだけの野心家と、民の命を守る「天下人の器」を持つ者との差別化。
(……戦国大名としての格を一段階上げるための、宣伝工作。『織田=救世主』という印象を世間に植え付ければ、これから先、他国へ侵攻する際の大義名分も、降伏を促す際の説得力も桁違いに高まる。いわば、最強の信頼残高を築く投資ですわ)
信長様は面白そうに歪む唇を手で隠しながら、目で先を促した。その試すような視線が今は心地よい。
「ですが、真の狙いはその先です。この支援をきっかけに、美濃から信濃への流通の筋を織田が独占します。武田の者たちは、織田が認めなければ塩一粒すら手に入らない……という状況に、知らずのうちに追い込まれていくのです。表面では情をかけ、裏では武田の生命線を握る――」
私は脳内で、尾張の海岸線を思い描いていた。知多の半島に幾重にも並ぶ塩田、海水を煮詰める白煙、そして産み出される純白の結晶。その「生産拠点」を、今や美濃の街道という最強の物流網が繋いでいる。
一度でもこの安定した供給に浸ってしまえば、敵対国からの細い密輸ルートには戻れない。それは現代でいうところの、市場の独占と規格争いにおける「勝ち確」の構図だ。
「一度、織田の塩に依存してしまえば、信玄はこちらを向いて牙を剥くことができなくなります。攻めてくれば供給を止める――それだけで、虎は干物になりますもの」
信長様はしばらく沈黙した後、低く笑った。その瞳には、私の「毒の混じった提案」を愉しむような光が宿っている。
「良い。美談として京にまで届くように触れ回れ。……織田の塩で『虎』を躾てやるとしよう」
こうして、歴史の表舞台では「敵に塩を送る」という麗しき逸話が、裏舞台では「武田家を織田の供給網に依存させる」という、狡猾な依存型制裁が始動した。
龍と虎が傷を舐め合っている間に、私たちはこの「塩の道」を黄金の路へと変え、次なる大事業――『上洛』への軍資金を吸い上げていくことになる。




