第21話:巨星の落日
尾張国境、新川の原野を、凄絶なまでの熱気が蹂躙していた。 視界の端から端までを埋め尽くす織田の旗印。その数およそ二万。
対する美濃の軍勢は、斎藤義龍が手ずから率いる精鋭三千に過ぎない。 圧倒的な物量差を前に、しかし、義龍の咆哮は戦場を震わせていた。
「信長ぁッ! 隠れておらんで、出てまいれッ! この斎藤義龍と、一太刀交えよッ!」
六尺五寸(約一九七センチ)の巨躯が馬上で躍る。
常人ならば持ち上げることすら叶わぬその鉄塊のような大太刀を、義龍はまるで木の枝のように軽々と振り回す。
一振りごとに大気が呻き、織田軍が築いた堅固な馬防柵は乾いた音を立てて粉砕される。盾を構えた足軽たちが紙細工のように宙を舞い、血飛沫が冬の空に弧を描いた。
最前線で対峙していた柴田勝家が、思わず槍を握り直し、その凄まじき武威に戦慄した。
「……なんという勢圧! あれこそが真の武人、最期の輝きか……ッ!」
勝家の瞳に宿ったのは、強敵に対する本能的な心酔だった。
美濃三人衆がすでに離反し、父・道三公が生存して織田に加担している今、義龍が勝つ道理などどこにもない。孤立無援。退路なし。すべてを悟った上で、義龍はただ「斎藤義龍」という己の魂を燃やし尽くすため、この地獄のような突撃を繰り返していた。
一振りごとに、常人の数倍もの体力を費やす剛剣。
しかし、義龍の動きは鈍るどころか、憤怒を糧にしてますますその鋭さを増していくように見えた。織田の包囲網の一角が、物理的な質量によって食い破られようとしていた。
しかしその時、半兵衛の瞳は勝家と対極的に、恐ろしく冷ややかな光を宿していた。
この日の織田軍は、一貫して「合戦」を拒んでいた。義龍が突き進めば、波が引くように兵たちが割れる。包囲の円陣は維持されるが、その大太刀の間合いには、決して誰も深入りさせない。その絶妙な距離感を保たせているのは、本陣で静かに采配を振る竹中半兵衛であった。半兵衛が扇子を動かすたび、織田の戦列は柳のようにしなり、義龍に「全力の空振り」を強いた。
「逃げるか、信長ッ! 小童めがッ!」
空を斬り続ける剛剣。全力の一撃が何の手応えもなく虚空を抜けるたび、その衝撃は逃げ場のない反動となって義龍の体内に蓄積されていく。
そして陽が落ちると、織田の立ち位置は一変した。
昼間、あてどなく回避に徹していた軍勢が、夜陰に乗じて執拗な「攻勢」へと転じたのである。疲弊した義龍軍がようやく腰を下ろそうとすれば、闇の向こうから織田の別働隊が喚声を上げ、法螺貝を吹き鳴らす。
引けば追い、眠ろうとすれば叩く。
一度も本格的な衝突を許さぬまま、絶え間なき騒擾によって義龍から安息を奪い去る。それは、武士の誇りを正面から踏みにじる、あまりに冷徹な波状攻撃であった。
睡眠を許さぬ、執拗な攪乱。一度も本格的な衝突にならぬまま、義龍軍は不眠不休の二日目を迎えていた。
◆◆◆
その光景を、私たちは数町離れた丘の上から見下ろしていた。
隣に立つ竹中半兵衛は、扇子で口元を隠しながら、冷徹なまでに静かな瞳で戦場を観察している。
「……勝家殿は不満げですが、これでよいのです。義龍様のあの大太刀、一振りごとに己の寿命を削り取っている。それを何の手応えもない空に振らせ続け、さらに夜通しの騒擾で眠りをも奪う……。これが第一の策にございます」
半兵衛の声には、一切の迷いがない。
「木下藤吉郎殿が美濃三人衆との密約の過程で聞き出した報せによれば、義龍様は此度の城失陥以降、激しい頭痛と眩暈に苦しんでおいでだったとか。……あれは、もはや病の淵にあります」
「……病、ですか?」
私が問い返すと、半兵衛は古の医書を引用するように語を継いだ。
「左様。風疾……古の猛将・王彦章も、凄絶なる憤怒の果てに脳の血管を断たれ、戦わずして自壊を遂げたと聞き及びます。義龍様は、その恵まれすぎた巨躯が枷となり、内側に渦巻く熱気を逃がすことができない『檻』に捕らわれている。信長様と共に仕掛けたこの『不眠と不戦の包囲』こそが、彼の内圧を臨界点まで高める、血も涙もない処刑台なのです」
現代的な視点で言えば、重度の高血圧症と、極限のストレス状態。そこに徹底した睡眠妨害を上乗せして、相手の肉体そのものを内部から破壊する策。半兵衛がやっているのは合戦ではない。生理的な極限状態への追い込みによる、自壊の誘発。
(本来の歴史でも、義龍様は一五六一年、三十五歳の若さで病に倒れるはずだったわ。死因は脳の病だとされている……)
義龍様が放つ熱量に対し、こちらの本陣は冷え切った機械室のように静かだった。半兵衛様が指先を動かし、信長様がそれを見守る。その調和は、あまりに機能的で、容赦がない。
信長様の瞳に映っているのは、もはや一人の武人ですらなかった。ただ、盤上を塞ぐ巨大な障害が消えるまでの、残り時間を数えている。そんな無機質な凪のような確信だけが、そこにあった。
◆◆◆
出陣から三日目の朝。
一睡もできず、憤怒に焼かれ続けた義龍軍の前に、半兵衛が静かに合図を送った。
突如、織田軍の各所から巨大な高札が掲げられる。そこには、美濃の支柱である安藤・稲葉・氏家の三人衆が、すでに信長様を主と定めた誓紙の写しが、これ見よがしに貼り出されていた。
「……おのれ、安藤、稲葉……ッ! こうも公然と、私を愚弄するかッ!」
義龍は血を吐くような勢いで絶叫した。
裏切りは疾うの昔に察していた。だが、それを敵軍が堂々と掲げ、一睡もしていない兵たちの目の前に突きつける。その「事実」の固定は、疲弊した脳に毒のように回った。
さらに追い打ちをかけたのは、織田の陣から響く唱和だった。藤吉郎が調略した元・美濃兵たちが、声を揃えて義龍の「正統性」を根底から否定する言葉を繰り返す。
『義龍様、もうお止めくだされ! 道三様よりの国譲り状もございます! 正統は信長様にあり!』
『貴殿が握るは、主から盗んだ偽りの権力のみ!』
義龍の視界は、激痛によって真っ赤に染まっていった。右手の感覚が消え、大太刀を握る握力が悲鳴を上げる。彼が人生のすべてを賭けて縋り付いてきた「美濃の主」という看板が、周囲の者たちの承認によって、音を立てて剥がれ落ちていく。
そして、最後の一押しが訪れた。
織田軍の陣が割れ、一騎の老将が姿を現した。 清須で半隠居生活を送っていた父、斎藤道三その人だった。
道三は鎧も着けず、まるで自家の庭を散策するかのような軽装で、穏やかな、そしてどこか哀れみすら含んだ瞳で義龍を見つめている。
「父……上……。やはり、貴様は……、信長の傀儡に成り果てていたか……」
義龍はそこから、血を吐くような声を張り上げた。それは自分に付き従う三千の兵、そして自分を包囲する元・美濃兵たちへ向けた、最期の煽動であった。
「皆、聞けッ! あの男を見よ! かつて美濃を飲み込み、蝮と恐れられた男が、今や尾張の若造に膝を屈し、命を惜しんで汚れ仕事を請け負っておるわ!
美濃を他国へ売り渡し、我らの誇りを踏みにじったのは誰かッ! 私は、この国を蝮の手から守り、武士の手に取り戻すために立ったのだ! 裏切り者の父を討ち、美濃の自立を貫くことこそが、我ら美濃人の真実ではないのかッ!」
その絶叫には、死に瀕した巨人が放つ凄まじい熱量が宿っていた。
一睡もできぬまま包囲され、絶望の淵に立たされていた義龍の兵たちの瞳に、再び鋭い光が戻り始める。義龍という男の圧倒的なカリスマが、崩れかけた軍勢を繋ぎ止めていた。
だが、その熱狂を、道三の冷ややかな一言が氷解させた。
「……見苦しいぞ、義龍」
道三は穏やかな、しかし一切の情を排した瞳で息子を見下ろした。
「お前がどれほど美濃を叫ぼうと、お前の足下にはすでに何もない。三人衆も、国衆も、皆が私に頭を下げた。お前が振り回しているその大義も怒りも、すべては私が信長に譲り渡した土地の上で、お前一人が勝手に踊っているに過ぎぬ」
道三の宣告は、義龍が積み上げてきた「実力による統治」という誇りを、一言の下に叩き壊した。
三日三晩にわたる不眠不休の行軍と、一太刀ごとに命を削るような大太刀の空振り。その過酷な肉体の酷使は、すでに義龍様の限界をとうに突き破っていた。 鎧の下の皮膚はどす黒く充血し、蟀谷の血管は今にも弾けんばかりに脈打っている。脳内では、自身の心音が高圧の槌となって絶え間なく内壁を叩き、視界の端はどろりとした闇に浸食され始めていた。
そこに、最も否定し、かつ最もその承認を渇望していた父・道三様からの、慈悲なき一撃が突き刺さった。 「お前には何もない」 その言葉は、義龍様が己の存在価値を証明するために積み上げてきた「奪い取った美濃」という虚城を、根底から崩壊させた。拠り所としていた正統性も、武人としての矜持も、すべてが泥土に還る。
その瞬間、義龍様の内で張り詰めていた最後の一線が、音を立てて断ち切れた。
「……あ……お、おぉぉ……ッ!」
魂の叫びを上げようとした咆哮は、途中で無残に掠れ、湿った音に変わった。 限界を超えて沸騰していた血圧が、脳内の血管を内側から無慈悲に突き破ったのだ。義龍様の口からは、噴水のような鮮血が天に向かって舞い、その巨躯が大きく仰け反った。
戦国という時代を象徴するようなその圧倒的な肉体が、重力に引かれるまま、ゆっくりと、だが凄まじい質量を伴って泥土へと沈んでいく。その地響きは、単なる一人の男の死ではなく、美濃という一国を支えてきた旧き理が根底から崩落していく音そのものであった。
泥にまみれたその手は、ついに一度も信長様の喉元に届くことはなかった。 自らの内に燃え上がった、逃げ場のない憤怒と焦燥という猛火。
義龍様はその炎に自らの肉体を焼き尽くされ、空虚な虚空を睨みつけたまま、その波乱の生涯を閉じたのである。
◆◆◆
義龍様の死を以て、美濃の併合は完遂された。
主を失った斎藤家の残党は、雪崩を打つように織田の軍門に降った。
美濃平定という巨大な事業を終え、織田家という組織は、いよいよ天下という大海へと、その巨体を躍らせることになったのである。
半月後。信長様は道三様、半兵衛様とともについに稲葉山城へと入った。しかし広間にて、衝撃的な報告を受けることになる。
――永禄四年。川中島、八幡原。
武田信玄と上杉謙信という、日ノ本の東側を代表する二大巨頭が、ついに正面から激突したという。
(一五六一年。歴史に名高い『第四次川中島の戦い』だわ。戦国史上、最も凄絶な消耗戦……)
信濃の山々が血で染まったという報せは、美濃を得たばかりの私たちに、容赦のない現実を突きつけていた。
東の虎が傷を舐め、そして再び立ち上がった時、その矛先がどこへ向くか。稲葉山城の広間に、重苦しい沈黙が降り積もる。 この静寂こそが、次なる巨大な抗争――東の虎との「経済と権威」を巡る戦いの、不気味な幕開けだった。




