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戦国バタフライ・エフェクト ~帰蝶(わたし)のマネジメントが強すぎて、ロジハラ魔王織田信長が「ホワイト天下人」になってしまった件~  作者: 六坂


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幕間:美濃の巨星、斎藤義龍

(一体どこで、何を、間違うた)


 稲葉山城、その最高所に位置する高楼の縁に立ち、斎藤義龍は暮れなずむ美濃の地を見下ろしていた。

 六尺五寸。並の男が二人並んだかのようなこの巨躯が、広間に落とす影はひどく長い。幼き頃より、私はこの国を継ぐべき最高傑作として育てられた。

 道三という怪物の子として、武芸を磨き、和漢の書を読み解き、人心を操る術を骨の髄まで叩き込まれた。非の打ち所のない嫡男。


 だというのに、今の私はどうだ。ずきり、と右の蟀谷(こめかみ)を突き刺すような鋭い痛みが走った。

 続いて、脳の芯が熱い湯で煮られるような不快な脈動が始まり、視界の端が暗く欠け始める。

 それだけではない。(はらわた)が何者かの手によって雑巾のように絞り上げられ、内側から熱い釘で抉られるような鈍痛が数日前から止まらない。


(……何ゆえだ。いつから、我が人生はこのような得体の知れぬ霧に覆われたのだ)


 私の歩みは、常に順風満帆であった。

 道三という老いた牙を抜き、この美濃を真の「武士の国」へと作り変える。その大志を遂げるための絵図は、寸分の狂いもなく完成していたはずだった。

 だが、あの尾張の「うつけ」が現れてから、道理が、この世の仕組みそのものが、狂い始めた。


(思えば、すべては長良川からよ……)


 悔やんでも悔やみきれぬのは、四年前の長良川だ。  一万七千五百の兵。対する道三はわずか二千七百。勝敗は戦う前から決していた。私はあの日、美濃の旧き理を断ち切り、父の首を天に掲げることで、真の国主として生まれ変わるはずだったのだ。


 それを、あの尾張の「うつけ」がすべてを台無しにした。

 軍略の常道をあざ笑うかのように、泥沼を駆け、死地を潜り、信長は道三を私の目の前から奪い去った。


 父を殺せなかった。その一事が、毒のように今日まで私を蝕んでいる。


 生き延びた道三は、清須から「美濃は信長に譲った」という戯言を国中に布告し続けている。これにより、私の統治は「正当な後継」ではなく、ただの「親不孝な横取り」へと貶められた。

 信長という怪物が介入したその日から、私の勝利という名の果実には、消えぬ(カビ)がこびりついたのだ。


◆◆◆


 「義龍様。此度の領内の差配、滞りなく進んでおりますれば、ご案じ召さるな」

 

 広間に現れたのは、安藤守就であった。続いて稲葉良通、氏家直元。 美濃三人衆と呼ばれる、我が家の柱石たちだ。

 彼らは、以前と変わらぬ所作で平伏し、淀みのない報告を行う。反乱の兆しはない。政務は回り、国衆たちも表向きは従順だ。  


 だが、それが何よりも恐ろしい。  


 彼らの言葉には、血が通っていないのだ。 安藤の瞳を覗き込めば、そこには私ではなく、常に尾張の方向を伺う不気味な光が宿っている。

 木下藤吉郎。信長に仕える、あの卑しき「猿」が、度々この美濃に姿を現していることは風の噂で聞いている。 奴は、この三人衆と何を語り、何を約束したのだ。  


 一度、それとなく安藤を質したことがあった。 安藤は、柳のようにしなやかに問いをかわした。 ――何をおっしゃいます。我らは斎藤家の家臣。尾張の者などと、関わりを持つ道理がございません――嘘だ。

 その落ち着き払った態度、そして私の怒りさえも「無駄な騒ぎ」として見守るような冷めた視線。  彼らはすでに、この斎藤家を見限っている。

 いや、見限るという言葉すら生ぬるい。この稲葉山城で行われている政務は、もはや私への忠義によるものではない。次にやってくる「新しい主人」に、少しでも美しき状態でこの国を引き渡すための、いわば事務作業に過ぎないのだ。  


 美濃の主は私だ。だというのに、私がこの城の廊下を歩くとき、そこにあるのはただの「空洞」だ。

 将兵たちに命令を下しても、彼らは丁寧に応じながら、その心は遥か南、清須の空を見上げている。


 突然、激しい頭痛が私を襲った。 右半分が痺れるような感覚と共に、耳鳴りが脳を突き刺す。 私は脇息に寄りかかり、荒い息を吐いた。  


 「義龍様、お疲れのようですな。……御自愛くだされ。斎藤家には、まだ貴殿の『名』が必要でございますから」


(もはや隠そうともせぬか……)

 

 稲葉が放ったその言葉。 「名」が必要だ、だと。もはや……それはつまり、私の「実」はもはや不要だと言っているに等しい。


 彼らは私を殺そうとはせぬ。


 ただ、私がこのまま病で枯れ、自然と織田にすべてを譲り渡すその日まで、大人しく飾られていろと言っているのだ。 かつて長良川で、私を支えると誓った者たちが、今や私の死を待ち望む「看取り人」へと成り果てている。


 胃の奥から酸っぱい液がせり上がってくる。 私は口元を押さえ、込み上げる不快感に耐えた。冷や汗が、六尺五寸の背中を伝って流れ落ちる。この巨体が、今はひどく重く、脆い粘土細工のように感じられてならなかった。


◆◆◆


 そして、極めつけは竹中半兵衛だ。

 十六人でこの稲葉山城を盗り、そして「遊び」であったかのようにあっさりと返してきた。


「斎藤家には、もはや身を預ける価値もない」


 そう天下に知らしめ、自らを織田へ売り込むための、あまりに無礼な実演であったのだ。

 案の定、半兵衛は城を返すと同時に織田へと下った。


 私の城。私の誇り。私の美濃。 それらすべてが、若造の戯れのような手並みで蹂躙され、ただ自身の才を世に示すための道具として使い捨てられたのだ。


 これほどの辱めがあろうか。その怒りが、もはや私の意識を白く燃やし尽くそうとしている。


 「う……うおぉぉぉぉぉぉッ!」  


 私は吠えた。

 喉が裂け、鮮血が混じるような絶叫が、無人の広間に木霊した。


 六尺五寸の巨躯(きょく)が、情けなくも膝をつく。

 憎い。 私を切り捨てようとする父・道三が憎い。 私の理をすべて破壊し、不条理を押し付けてくる信長が憎い。 そして、その怪物の横で、扇子を広げて不敵に微笑むあの妹、帰蝶が憎い。


 もはやこれまでか。 このまま織田という巨大な蜘蛛の巣に、音もなく飲み込まれて終わるのか。


 否。断じて否だ。


(……空洞とて、まだこの美濃の主は、斎藤義龍だ!)


 激しい怒りが、痛みで痺れていた私の脳を逆に覚醒させる。

 私は、震える手で壁の大太刀を掴み、無理やり身体を引き起こした。 激痛に歪む顔を、無理やり凄絶な笑みへと変える。  


 完全に織田に飲まれる前に。 すべてが失われる前に。

 この斎藤義龍という男の最期の力をもって、あの尾張のうつけの喉笛を噛みちぎってやる。


 道三よ、見ているがいい。貴様が選んだ「婿」が、私の憤怒の炎で灰になる様を。

 戦とは、利害の計算ではない。命を、そして意地を削り合う、地獄の(わざ)だということを、貴様らに思い出させてやる!


「全軍に、伝えよ……。これより、織田信長を討つ……!」


 美濃の主は、私、斎藤義龍だ。 この六尺五寸の身体。この剛腕。「蝮」に叩き込まれた知恵。 まだ死んではいない。


「信長。貴様という理不尽を、この斎藤義龍が、力ずくで葬り去ってくれるわ!」


 私は、昏い情念に身を焼きながら、夕闇迫る尾張の空を睨みつけた。

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