第19話:『ブランドの暴騰』と『清洲同盟』
私は、首実験を終えて戻ってきた信長様の姿を、遠巻きに見ていた。
返り血を浴び、泥にまみれながらも、その瞳には周囲を平伏させるほどの鋭い「華」がある。
今、彼のタレントとしての市場価値(カリスマ性)は、間違いなく日ノ本で頂点に達していた。
豪雨が去り、清須城を黄金色の陽光が照らす。
城内は、歴史的な大逆転劇を成し遂げた熱狂に包まれている。
その中心は間違いなく、信長様。
(……凄まじい仕上がりね。これこそが、何万人に一人の『スター』が放つオーラだわ)
かつて現代の芸能界で、新人アーティストがチャート一位を獲った瞬間の、あの爆発的な輝きを思い出す。けれど、この種の大ヒットは得てして主役と周囲との摩擦を加速させる。現代での長いマネージャーとしての経験が、興奮する私の頭に冷や水をかけ、周囲を冷静に観察させた。
義元様の首が届いた瞬間、昨日まで「降伏」の二文字に震えていた家臣たちが、手のひらを返したように勝鬨を上げ、己の武功を叫び、未来の恩賞を計算し始めている。
足軽たちは満身創痍だ。ある者は槍を杖にして歩き、ある者は疲れ果てて座り込んでいる。その瞳に宿るのは、ただの疲弊や生還した安堵だけではない。自分たちが、この両の手で「日ノ本の勢力図」を書き換えてしまったという、震えるような誇りだ。
昨日まで、織田は今川という巨人に飲み込まれる寸前の、地方の零細企業に過ぎなかった。
だが、今は違う。市場の支配者を、わずか十分の一以下の兵力で「清算」してのけた。日ノ本で最も投資価値が高く、最も恐ろしい勢力として、その名は一気に全国へと知れ渡る。
(…… 歴史上にも類を見ない、凄まじい成果。現場はそれを自分たちの手で、成し遂げたことへの高揚にあふれている。でも、マネージャーとしてはこれほど「怖い」状況もないわね)
湧き上がる歓喜の渦を、私は冷めた目で見つめ直す。
この勝利は、信長様というトップスターが振りかざした「実現可能だが過酷な要求」と、それに応えるために家臣たちが命を削り、泥を啜りながら駆け抜けた、凄まじい文字通りの「デスマーチ」の果てに生み出されたものだ。
今はいい。日ノ本一の大軍を打ち破ったという高揚感と、これから分配されるであろう莫大な恩賞への期待が、現場の疲弊を一時的に麻痺させているだけ。 けれど、人間はそう長くは「熱狂」だけで走り続けられない。
(今の織田家は、空前の大ヒットを飛ばしながらも、過労死寸前までタレントとスタッフを追い込み続ける超ブラックなプロダクションと同じよ)
信長様のあのパワハラ・ロジハラ気質は、この成功でさらに加速するはず。 「やればできるではないか」トップがそう確信した瞬間、現場への要求はさらに跳ね上がる。もしすべての家臣が信長様と同程度の能力があるならば可能なのでしょうけど、実際はそうではない。それが繰り返されたとき、スタッフたちの心に溜まっていくのは忠誠心ではなく、静かな殺意と、逃げ場のない絶望だ。
歴史が教える「本能寺」という最悪の不祥事は、まだ遠い先のこと。けれど、その種火はもう、この勝利の熱狂の中に燻り始めているかもしれない。
(あのお方を死なせない。そのためには、このブラックな組織を強引にでも『ホワイト化』させなきゃ。これ以上のデスマーチは、組織を内側から腐らせるわ)
必要なのは、信長様の「理」を「持続可能なプラン」に翻訳できるクッション役。そして、現場の負担を分散させるための徹底した分業体制の構築。
何より、信長様という劇薬を正しく薄め、家臣たちが「あのお方に付いていけば、豊かになれる」と思える環境を作ること。
本能寺の変という最悪のバッドエンドだけは回避しなければならない。あのお方を死なせないためには、このブラックな組織を強引にでも「ホワイト化」……つまり、持続可能な運営体制へと作り変える必要がある。
◆◆◆
信長様のカリスマを削ることなく、いかに現場の負荷を下げるか。その第一歩は、意外なところから転がり込んできた。
今川という親会社を失い、業界を彷徨うことになった若き才能――松平元康との対面である。
清須城に現れた元康様は、まだ幼さの残る顔立ちだが、その瞳の奥には、今川という巨大資本に翻弄され続けた者が持つ、底知れぬ忍耐と現実的な計算が同居している。
織田の重臣たちは、剥き出しの敵意を隠そうともしない。「今川の番犬が、どの面下げて現れたか」「本来なら、その首を跳ねて義元の供にすべきよ」、そんな低俗な野次が飛ぶ中、元康様は微動だにせず、深々と頭を下げた。
「……信長様。我ら松平家は、今川の傘下を離れました。これからは貴殿と、対等な提携を結びたい」
その言葉が発せられた瞬間、重臣たちの間で嘲笑が爆発した。
「対等だと? 笑わせるな」
「身の程を知れ。負け犬が織田の軍門に降り、臣下となるのが筋であろうが」
怒号が飛び交い、広間の空気が沸騰しそうになったその時。
信長様が、膝に置いた手をわずかに動かした。ただそれだけの動作で、重臣たちは氷を投げ込まれたように黙り込んだ。
「元康。貴様との同盟、対等なるものとして受けよう」
信長様の宣言に、広間がどよめく。
本来の歴史――私が知る「清洲同盟」は、互いの背後を突かないことを約束し、元康様が東の防壁となって信長様を支える、極めて堅実な「軍事同盟」だったはずだ。それだけでも、当時の弱肉強食の常識からすれば、信長様の判断は驚くほど合理的で寛大だったと言える。
しかし、今の織田家には、本来の歴史よりも潤沢な資金と、私が長秀様と共に整備してきた「物流の理」がある。信長様の決断は、その土台を得て、さらなる進化を見せていた。
「ただし、条件がある。三河の独立は認めるが、貴様の領内を流れる物資の『桝』と『貨幣』を、すべて織田の規格に合わせろ。そして三河の街道整備は、俺の指し示す図面をなぞれ」
元康様が目を見開く。
単なる軍事の協力ではなく、領土の「仕組み(インフラ)」の共有。これは、三河という土地を丸ごと、織田の経済圏へ統合することを意味していた。
「……それは、三河の富を織田へ流せということでしょうか」
元康様の問いに、信長様は不敵に、そして残酷なまでに明るく笑った。
「逆だ。織田の富が、三河へも等しく流れるということよ。俺が美濃を獲り、京へ繋ぐ道を作れば、その血流はすべて三河を潤す。貴様が三河を豊かにすれば、それはそのまま、俺の背後を支える鉄壁の盾となる」
信長様の瞳に宿っていたのは、単なる支配欲ではない。
「尾張」と「三河」という二つの組織を一つの共通市場で繋ぎ、その全体最適によって爆発的な成長を生み出そうとする、巨大な経営者の眼光だった。
本来の歴史なら、元康様は後に「信長様の無理難題」に長く苦しめられる、孤独な軍事の盾となったはずだ。だが、この提携であれば、三河は織田の成長を自らの利益として享受できる「パートナー」になれる。
元康様は、しばらくの間、信長様の言葉を咀嚼するように黙り込んでいた。
やがて、彼はゆっくりと、しかし先ほどよりも一層深い敬意を込めて平伏した。
「……承知いたしました。信長様の描く『理』、この元康、三河にて誠心誠意、体現してご覧に入れましょう」
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
私が現代の知識で蒔いてきた種が、信長様の常軌を逸した才と噛み合い、歴史が本来の軌道から静かに、けれど力強く逸れていく。
そのバタフライエフェクトが引き起こす微かな風が、私の肌を撫でて通り過ぎたような気がした。




