第18話:ある足軽の桶狭間
出陣前、熱田の社。
その床に突っ伏しながら、ある足軽が寒さにがたがたと歯を鳴らしていた。
空の底が抜けたかのような雨だった。
ほんの数年前まで鍬を振っていた身には、この濡れそぼった鉄の腹当は、ただひたすらに重く、冷たい。わしは震える自分の膝を、ただ呪うように見つめていた。
ふと、拝殿の前に立つ御屋形様(信長)の背中が見えた。
この激しい雨の中でも、あのお方は岩のように動かない。何を祈っておられるのか、あるいは祈りなど端から捨てておられるのか。
わしたちのような末端の者には、そのお考えなど一生かかっても分からぬだろう。ただ、あのお方の周りだけ、雨の音が吸い込まれて消えているような、得体の知れぬ恐ろしさだけが伝わってくる。
周りの連中は震えながら神仏にすがっている。だが、わしにはどうしても、この雨が神仏の情けとは思えなかった。まるであのお方が、今川の大軍を罠に嵌めるために呼び寄せた「黒い帳」のように思えてならなかったのだ。
◆◆◆
「出陣じゃあ! 遅れる者は置いていくぞ!」
下知が飛ぶ。わしたちは泥水を蹴り上げ、熱田を飛び出した。
道とは名ばかりの、膝まで沈む泥沼だ。一歩踏み出すたびに、泥がわらじを食い、脚の筋を一本ずつ引きちぎるような痛みが走る。 二千の足軽が吐き出す荒い息は、雨に混じって白く煙った。
(……動け。今はただ動かねば、命はあるまい)
あのお方は、一度も振り返らない。わしが止まったところで、進軍が止まるはずもない。もしここで動けなくなれば、ただ泥の中で踏み潰されるだけだ。その恐怖だけで、わしたちは死に体の脚を動かし続けた。
だが、おかしなことがあった。
この嵐の中、どれほど駆けても、一度も「腰を下ろして食う」ということをしなかった。
街道の曲がり角、橋のたもと、絶妙な場所に必ず村の衆が立っているのだ。彼らは泥にまみれながら、走り抜けるわしたちの手に「竹の皮に包んだ握り飯」や「塩を混ぜた水」を、次々と押し込んできた。
――食え! 歩みを止めるな!
長秀様の家臣らしき男たちが、村の衆を急き立てている。
走りながら、泥のついた手で握り飯を口にねじ込む。喉が詰まりそうになりながら、それを水で流し込む。
それは、腹を空かせた牛馬に飼い葉を食わせるのに似ていた。
明日まで生かすのは情けのためではない。今、この瞬間に倒れて「使い物」にならなくなるのを防ぐためだけの、いわば道具の手入れだ。
わしたちは人間としてではなく、御屋形様の振るう槍の「穂先」として、ただ壊れぬように繋ぎ止められているかのような錯覚に陥っていた。
半死半生の思いで辿り着いたのは、桶狭間の田楽窪を見下ろす崖の上だった。
眼下には、山を埋め尽くさんばかりの赤と金の旗印。四万五千という気の遠くなるような今川の大軍が、狭い谷底にひしめき合っている。
奴らは、雨を避けて天幕の下に潜り込み、火を焚き、酒を酌み交わしていた。
あんな大軍が、この狭い場所に押し込められていれば、身動きなど取れるはずもない。雨のせいで互いの顔も見えず、ただ「数」が多いことだけに安心して、己の首元に死が迫っていることにも気づいていない。
わしは、茂みの中で息を殺した。
隣の男が、震える手で槍を握り直している。
わしたちは、今川の連中から見れば、袋の中の鼠のような、取るに足らぬ存在だったはずだ。
だが、今、鼠を狙っているのは、どちらか。
崖の上に立つ御屋形様が、ゆっくりと、刀を引き抜いた。あのお方の瞳には、四万五千という数など、最初から入っていないようだった。
「……全軍、突き進め。目標は義元、ただ一点!」
その声は、低いが鋭く、わしたちの耳底に突き刺さった。
もう、考える余裕などなかった。 二千の足軽が、一塊の泥となって、崖から谷底へ向けて雪崩れ込んだ。
神速などという、綺麗なものではない。
足が滑り、泥を噛み、転がり落ちるようにして敵の陣へと突っ込んだのだ。
「何事だ! どこから来た!」
叫び。怒号。そして、血の臭い。
今川の兵どもは、驚愕に目を見開いたまま、武器を手に取ることもできずに斬り伏せられていく。
四万五千という軍勢は、あまりに大きすぎた。何が起きたかを末端まで伝えることすらできず、ただ混乱だけが毒のように広がっていく。
誰の下知に従えばよいのか。どこへ逃げればよいのか。
奴らはその答えを探している間に、わしたちの刃に晒された。
御屋形様の駆る馬が、わしの目の前を、泥を跳ね上げて通り過ぎていく。その時、わしは悟った。 あのお方は、わしたちが泥にまみれて作った「一刻の隙」を、義元の首を獲るためだけの材料として、一滴の無駄も残さず使い切ろうとしているのだ。
腹が減れば握り飯が、喉が渇けば水が出てくる道も、わしたちがこれまで流した汗も、今の死に物狂いの突撃も、御屋形様にとっては元より計算され、準備され尽くしたものだったのだ。
それらすべてが勝利という結果に、余すことなく吸い取られていく。そのあまりの徹底ぶりに、わしは恐怖しながらも、同時に言い表せない美しさを感じていた。
◆◆◆
戦場を埋め尽くすように聞こえていた叫び声が、不意に途絶えた。
崖の下、泥にまみれた乱戦のただ中で、一際高い鬨の声が上がった。
「今川義元、討ち取ったりー!」
その声が豪雨を切り裂いた瞬間、世界から色が抜け落ちたかのような静寂が訪れた。わしの目の前で槍を振り回していた今川の武士が、まるで魂を抜かれたように動きを止める。
四万五千という軍勢は、つい先刻まで、天を突く巨大な石垣のように見えていた。だが、要石である義元様が抜かれた瞬間、それはただの「崩れた瓦礫の山」に成り果てた。
支えを失った軍勢は、もはや組織ではない。
誰が指図を出すのか。誰が退き口を守るのか。
それを決める者がいなくなったことで、巨大な石垣のように見えていた軍勢は、行き場を失い、怯えた人間の集まりに戻っていた。
――逃げろ! 義元様が討たれたぞ!
――清須の化け物どもが来るぞ!
我先にと武器を捨て、今川の兵たちが山の中へ逃げ散っていく。
そのまま戦い続けることになれば、わしたちは皆死ぬか逃げるしかない。
だが、今川のお殿様が打ち取られることなど、ほんの僅か前まで、誰も想像だにしていなかったに違いないのだ。判ずることができる状況ではないのだろう。
つい先刻まで、わしたちを「袋の中の鼠」と笑っていた大軍が、たった一人の死によって、これほどまで脆く崩れ去るものなのか。
わしは、血のついた槍を杖にして、泥の中に座り込んだ。震えが止まらない。
二千 対 四万五千。村の小僧が聞いても笑い飛ばすような無茶な数勘定を、御屋形様は嵐と泥濘の中で現実に変えてしまった。
(……恐ろしい。なんて恐ろしいお方だ)
あのお方の瞳には、最初からこの「結末」という図面が描かれていたのだ。わしたち二千の足軽は、その図面通りに動かされる穂先でしかなかった。 たったの二千で、今川という巨大な化け物を解体してしまった御屋形様の手腕に、わしは内臓が凍るような恐怖を覚えた。
同時に、腹の底から、今まで感じたことのない熱い何かがせり上がってくるのを感じていた。
鍬を振り、土にまみれて一生を終えるはずだったわしが、日ノ本一の大軍を、この両手の槍で突き崩したのだ。
(わしは……あのお方の策の一部として、日ノ本をひっくり返したんだ)
恐怖のすぐ裏側にある、震えるほどの誇らしさ。
わしは返り血を雨で洗い流しながら、初めて清須の空を、晴れがましい思いで見上げた。




