第17話:桶狭間の泥濘
一五六〇年(永禄三年)五月十九日、正午過ぎ。
天を衝くような巨木が並ぶ熱田神宮の境内は、暴力的なまでの豪雨に包まれていた。雨粒が甲冑を叩く音は、あたかも数千の太鼓が一度に鳴り響いているかのようであった。
信長様は、拝殿の前で彫像のように動かず、雨のカーテンの向こうを見つめていた。清須から一気に駆け抜けてきた二千の精鋭たちが、荒い息を吐きながらその後ろに控えている。
家臣たちは、殿が何を待っているのかを知らない。ただ「神罰」を祈っているのだと、古臭い信仰を握りしめて震えている。だが、私だけは分かっていた。
(……祈りなどではない。殿は、この豪雨が生み出した『情報の空白』を読み切ろうとなさっている。四万五千という巨体は、この雨の中で互いの位置さえ見失う『盲目の怪物』と化している。あとは、その急所を指し示す『一点の光』が届くのを待っているだけ……)
今川軍、四万五千。それに対し、信長様が率いるのはわずか二千足らずの遊撃部隊。普通に考えれば、これほどの資本の格差(兵力差)がある中で正面からぶつかれば、瞬時に飲み込まれて全滅する。
だが、この豪雨こそが、信長様の求めていた「市場の歪み」だった。
雨は音を消し、視界を奪い、巨大すぎる今川軍の連絡経路を物理的に遮断する。四万五千の巨体は、今や情報の行き渡らない「盲目の怪物」と化していた。
◆◆◆
しくじれば、間違いなくあの世行きだあ。
呼吸を殺せ。泥を啜れ。心臓の音さえ、雨音に溶かせ。
わしは今、桶狭間の田楽窪へと続く茂みの中に潜り込んでいる。全身泥まみれ、顔には獣の糞を塗り、今川の兵が落とした小汚い笠を深く被っている。
目の前には、見渡す限りの赤と金の旗印。四万五千という軍勢は、この狭い谷間を埋め尽くし、まるで大きな赤い蛇がのたうち回っているようだ。
怖えなあ。清須を出てからずっと、心臓が口から飛び出しそうだ。
だが、この雨だ。
今川の兵どもは、清須の殿様を「俎上の魚」だと思い込んでいやがる。 ――この雨じゃあ、織田の猿どもは震えて出てこれまい――義元様がお喜びだ。今宵は早めに酒を配るとよ――そんな浮かれた声が、雨音に混じって聞こえてくる。
わしは、這いつくばったまま目を凝らした。
道三様が言うには人は欲と慢心でできている。巨大な組織ほど、その隙間は広くなる。
いた。
谷の底、一番低い場所に、一際きらびやかな御輿が見える。その周りでは、甲冑を脱ぎ捨てた将たちが、雨を避けて酒を酌み交わしている。
兵は巨大だが、それゆえに末端の兵は自分の隣で誰が死んでも気づかねえ。義元様の周りにいる者たちは、自分たちが「谷の底」という逃げ場のない場所にいる恐怖さえ忘れている。
……見てろ、今川の旦那がた。あんたらの命の値段、この汚い猿がたった今、値踏みしてやったぞ。
◆◆◆
熱田の境内に、泥の塊が転がり込んできた。
藤吉郎だ。その姿はもはや人間かどうかも怪しいほどに汚れ果て、肩で荒い息を吐きながら信長様の足元へ滑り込んだ。
「……申し上げます! 義元様の御輿、桶狭間の北、田楽窪の谷底にございます!」
信長様の瞳に、鋭い火が灯った。藤吉郎は喉から血を吐き出すような声で続けた。
「奴ら、この雨を『織田を封じる檻』と思い込んで油断しきっております! 谷底で甲冑を脱ぎ、獲物も置いたまま、酒の支度を始めております。……殿様、今です! 奴ら、自分の頭の上に誰が立っているかさえ、この雨で見えておりませぬ!」
信長様は一歩踏み出し、泥まみれの藤吉郎の顔を、自身の扇でぐいと持ち上げた。
「……猿。場所は違わぬな。貴様の目は、義元の喉元を確かに捉えたか」
「……へへっ。あのお方の御輿の飾り、金粉が剥げているところまで、この目で見届けて参りました!」
信長様は満足げに口角を上げると、藤吉郎を放り出し、一切の迷いなく刀を引き抜いた。
今川は巨大すぎて、情報を集約し、伝達するまでに致命的な時間を浪費している。対して織田は、この泥まみれの男が運んできた「一点の真実」に、全資本を一気に投下しようとしている。
「……全軍、疾走せよ! 目標は義元の首、ただ一点!」
信長様の号令が飛んだが、そこにあるのは物語のような華々しい突撃ではなかった。
二千の兵が突き進むのは、道とも呼べぬ泥濘の斜面だ。雨を吸った土は重く、足を踏み出すたびに膝まで沈み込む。
兵たちは喘ぎ、転び、泥まみれになりながら進む。甲冑は雨を吸って数倍の重さになり、体温を容赦なく奪っていく。どれだけ規律を説いても、この物理的な苦痛の前では、組織の糸は容易に千切れかける。
ここで、長秀様が四年をかけて村々に仕込んでいた備えが、かろうじて組織を繋ぎ止めた。
進軍ルートの各所に配置された村々。そこには長秀様の命を受けた者たちが、兵の足を止めさせぬよう、震える手で「温めた握り飯」と「干し肉」を差し出し続けていた。
兵たちは歩みを止めず、それを口にねじ込み、わずかな塩分と熱量で、止まりかける筋肉を無理やり動かす。馬が泥に脚を折られれば、農民たちが予備の馬を引き出し、即座に乗り換えさせる。
(……流石は米五郎佐として歴史に名を残した方ね。長秀様という天才的な実務家が、この『摩擦』を予見し、積み上げてきた準備の果てだわ。仕組みは人を速く走らせない。ただ、極限状態での『停止』を、わずかに遅らせるに過ぎない)
進軍は遅い。泥に足を取られ、兵たちの顔からは生気が失われていく。
だが、織田軍は「止まらなかった」。
一方で、桶狭間の谷底に停滞する今川軍は、この悪天候下で自らの巨大さゆえに完全に硬直していた。
信長様を先頭にした二千の影が、今川の「脳」が眠る田楽窪の崖際へと、執念の末に辿り着こうとしていた。




