第2話:初夜の契約更改(前編) ~祝言の席でのリスク管理~
「……茶だ。聞こえなかったか?」
大広間に、信長の低い声が響く。 だが、給仕の者たちは恐怖で萎縮し、動けない。 筆頭家老の平手政秀も、主君の暴挙に顔面蒼白だ。
「と、殿……! お戯れを! 今は『固めの盃』の最中にございますぞ!?」
平手が悲鳴のような声を上げる。 そう、問題は単に酒を飲むか飲まないかではない。 戦国の結婚において、三三九度の盃を交わすことは、両家の同盟を神前に誓う神聖な契約儀式(調印式)だ。それを茶で済ませるなど、相手方の斎藤家に対するこれ以上ない侮辱であり、契約不履行と取られかねない。
家臣たちが凍りつくのも無理はない。彼らは酒が飲みたいわけではない。目の前に積まれた酒樽を無視して儀式を強行すれば、この婚姻が破談になり、美濃との戦争が再開することを恐れているのだ。
だが、信長は冷ややかな目を平手に向けた。
「杯の中身が何であれ、誓いの重さが変わるとでも言うのか?」
「へ……?」
「神前での誓約とは、心の在り方を問うものだ。液体が米の汁か、茶の葉の汁かによって、神の加護が変動するなら……そんな神など、ただの酔っ払いだろう」
平手はパクパクと口を開閉させている。 信長の言っていることは、論理的には正しい。だが、常識的にはアウトだ。そのギャップに脳が追いついていない。
広間は沈黙し、恐怖だけが蔓延していく。 思考停止。萎縮。 誰もが「怒られたくない」一心で視線を伏せ、脳の働きをシャットダウンしている。
(……一番嫌いな空気だわ)
私は扇子の陰で、冷ややかにその光景を見つめた。 恐怖で凍りついた組織は、パフォーマンスが著しく低下する。 報告は遅れ、隠蔽が横行し、誰も責任を取らなくなる。 これは「統率」ではない。ただの「機能不全」だ。
(トップが正論で現場を凍らせてどうするのよ。まずはこの場の空気を解凍しないと、何も始まらない)
私は意を決し、スッと立ち上がった。 白無垢の衣擦れの音が、静まり返った広間に凛と響く。
「――皆様、なぜ下を向いておられるのです?」
私は腹に力を入れ、広間の隅々まで届くよう、意識して声を張り上げた。 全員の視線が、一斉に私に集まる。上座の信長も、茶碗を持ったまま怪訝そうに眉をひそめている。
私は家臣団を見渡し、諭すように言葉を継いだ。
「殿は今、為政者として極めて高度な戒めを仰ったのです。……お気づきになりませぬか?」
広間の空気が、ピクリと揺れた。 家臣たちの目に、「恐怖」ではなく「戸惑い」の色が浮かぶ。
「こ、高度な戒め……?」
「ええ。古代中国の伝説的な帝、禹王の故事をご存知でしょう?」
私は、歴史オタクの知識をフル回転させ、信長が好みそうな「権威あるエピソード」を引用する。
「かつて儀狄という者が旨い酒を造り、禹王に献上しました。禹王はそれを飲み、『なんと甘美な味だ』と称賛しましたが、直後に儀狄を遠ざけ、こう予言したのです。『後世、必ずや酒で国を滅ぼす者が現れるであろう』と」
家臣たちが「ほう……」と息を呑む。 武力一辺倒かと思っていた織田家だが、学のある者はいるらしい。
「殿は、隣国に今川、そして北には我が父・斎藤道三が控えるこの乱世において、酒という『隙』がいかに国を危うくするかを憂いておられるのです。茶で盃を交わすというのは、単なる気まぐれではありません」
私は信長の方を向き、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「『酒池肉林』の逸楽に溺れた殷の紂王の如くならず、自らを律し、常に明晰な頭脳で国を守る……。殿は、その覚悟を『茶』という形で示されたのでございましょう?」
信長の「個人的な潔癖さ」を、私は「中国の故事に基づいた高潔な帝王学」へと強引に翻訳したのだ。 これなら家臣も納得するし、斎藤家の顔も立つ。
信長の目が、わずかに見開かれた。 その瞳の奥で、計算の光が走るのが見えた。
(……ほう。そう来るか)
そんな声が聞こえた気がした。 彼は口の端をニヤリと吊り上げ、持っていた茶碗を掲げた。
「……平手、聞いたか。妻の申す通りだ。貴様は私に、国を滅ぼす暗君になれと申すか?」
信長が私の解釈に乗っかった。 こうなれば、平手に反論の余地はない。
「め、滅相もございませぬ……! そのような深き思し召しがおありとはつゆ知らず、浅はかな諫言を……!」
「分かれば、さっさと始めろ。湯が冷める」
信長の合図で、ようやく給仕が動き出した。 朱塗りの盃に、透明な酒の代わりに、琥珀色の茶が注がれる。湯気がふわりと立ち上った。
私は信長の前に座り、盃を受け取る。 三三九度。 夫婦の契りを結ぶ儀式。
私が一口目を口に含むと、渋い茶の味が舌に広がった。 甘い酒ではない。覚醒を促すカフェインの苦味。 それはまるで、これから始まる私たちの、甘さなど欠片もない結婚生活を象徴しているようだ。
(……いいわね。誓ってあげるわ)
私は信長を真っ直ぐに見つめ、盃を空けた。 信長もまた、私から視線を逸らさず、茶を一息に飲み干した。
カチン、と盃を置く音が重なる。
愛の誓い? いいえ。 これは「業務提携契約」の調印だ。 今この瞬間、織田家という傾いた組織の再建プロジェクトが、正式に発足したのだ。
家臣たちから「おお……」と安堵の声が漏れる。 茶であっても、形が整えば彼らは満足なのだ。 とりあえず、場の機能停止は防ぎ、儀式も成立させた。 だが、私の仕事はまだ終わらない。
「平手様」
私は、安堵で涙ぐんでいる平手政秀に声をかけた。
「は、はい! な、何でございましょう、濃姫様」
「私の連れてきた従者たちのことですが……。外で待たせている駕籠かきの人足や、下級の警護兵たちにも、ここの料理を振る舞ってあげてくださる?」
私は広間の外、暗闇の中で待機しているであろう一行に視線を向けた。 私の側付きの侍女などはともかく、荷運びや駕籠を担いできた日雇いの者たちは、末席にも加えられず、握り飯程度で済まされるのが常だ。
「え……? は、はい。それは構いませぬが、人足風情にこのような上等な膳を……?」
平手は困惑している。 身分制度の厳しいこの時代、鯛や伊勢海老といった祝い膳を、最下層の労働者に与えるなど常識外れだ。「猫に小判」だと言いたげな顔をしている。
だが、私は首を横に振った。
「これだけ立派な鯛や伊勢海老、手つかずで下げるのはあまりにもったいないでしょう? それに」
私は声を潜め、平手だけに聞こえるように囁いた。
「彼らは美濃の民です。織田家で手厚いもてなしを受けたと知れば、国元に帰った後、城下の酒場や家族に何と吹聴すると思います?」
「……あっ」
「『織田家は末端の者にも情け深い、豊かな国だ』と広めてくれるでしょう。噂というのは、上からではなく下から広まるもの。これは、膳の残り物でできる、最も安上がりな『外交宣伝』……いえ、『良い評判を広める策』ですよ」
「ぷろ……? はあ、なるほど。良い評判、でございますな」
平手は聞き慣れない横文字に一瞬きょとんとしたが、すぐにその意味を理解し、理性の光を宿した。 単なる慈悲ではない、実利ある策だと理解したのだ。
「……恐れ入りました。すぐに手配いたします!」
平手の号令で、豪華な食事が下げられ、別室や庭先で待つ従者たちへと運ばれていく。 これでいい。現場のスタッフ(従者)のモチベーション管理と、対外的なイメージアップ。そしてフードロスの削減。一石三鳥だ。
(さて、これでこの場の仕事は片付いたわね)
ふと視線を感じて顔を上げると、上座の信長が、茶で満たされた盃を持ったままジロリと私を見ていた。 その目は、「余計な真似を」という不快感ではなく、「ほう、少しは使えるな」という値踏みするような光を帯びていた。
目が合うと、彼はふいっと視線を逸らし、立ち上がった。
「……興が削がれた。私は部屋に戻る」
信長はそれだけ言い捨てると、家臣たちの挨拶も待たずに大股で広間を出て行ってしまった。
「あ、殿……!」
再びざわめきかける広間。 主役がいなくなれば、宴はお開きにするしかないのか――そんな困惑が広がる。 特に、美濃の爺やたちは「やはり歓迎されていないのでは」と不安げな顔をしている。このまま放置すれば、また不穏な空気が戻ってしまう。
私は、慌てる平手を呼び止めた。
「平手様」
「は、はい!」
「殿はお疲れのようですので、私が部屋へ参り、お世話をいたします。……あとのことは、筆頭家老である貴方にお任せしてもよろしいですか?」
「私に、でございますか?」
「ええ。これだけの御馳走、冷めてしまっては料理人に失礼です」
私は美濃の席に座る爺やたちにも聞こえるよう、声を張り上げた。
「これよりは無礼講。織田と美濃、互いに杯を……いえ、膳を囲み、親睦を深めてくださいませ。平手様、美濃の方々に、尾張の豊かな海の幸をたっぷりと味わわせてあげて」
平手はハッとして、深く頭を下げた。
「承知いたしました! この平手政秀、殿と奥方様に代わり、精一杯おもてなしさせていただきます! さあ皆様、まずは箸をお取りください!」
平手の号令で、再び広間に活気が戻る。 美濃の爺やも「かたじけない」と頭を下げ、箸を手に取った。 ホスト役を信頼できる部下(平手)に正式に委譲することで、私が退席しても宴が続く「大義名分」を作ったのだ。
「では、私も失礼いたします」
涼やかな笑顔を残し、白無垢の裾を翻して退室する。 その背中に、織田家臣たちの「なんと出来た奥方だ」という声と、美濃の爺やたちの「姫様、ご立派になられて……」という感涙の声が聞こえてくるのを、私は聞き逃さなかった。
(チョロい。……と言いたいところだけど)
私は廊下に出た瞬間、表情筋を緩めて脱力した。
(本番はここからよ。あの論理的嫌がらせ魔王と、サシで今後の経営方針を話し合わなきゃならないんだから)
戦場は、広間から寝室へ。 私は気合を入れ直し、新婚初夜の待つ部屋へと歩き出した。
【本日の業務報告】 ・トラブル対応:結婚式における新郎の暴言および儀式ボイコットへのフォロー ・施策:故事引用による茶の正当化、三三九度の遂行。筆頭家老への権限委譲による宴の継続 ・成果:家臣団の動揺抑制と、斎藤家随行員への好感度向上 ・次回の課題:クライアント(信長)との直接契約更改
お読みいただきありがとうございます!
お茶での三三九度、無事に(?)成立しました。 甘い愛の誓いではなく、苦いお茶での「業務提携契約」。この二人らしいスタートになったかと思います。
さて、次回こそはいよいよ二人きりの寝室へ。 広間では猫を被っていた帰蝶が、本性を現して信長に詰め寄ります。
▼次回予告 『第2話(後編):初夜の契約更改 ~まずはその格好をなんとかしなさい~』
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