第16話:織田信長の敦盛
美濃の屋台骨である三人衆を引き抜いてから、四年近い歳月が流れた。
この間、織田家は牙を隠し、ひたすらに「内政」という名の基盤強化に明け暮れていた。
斎藤義龍様という名目上の「経営者」を残したまま、美濃三人衆を筆頭に優秀な人材と物流の利権を剥ぎ取った美濃は、実質的にもはや織田家の巨大な下請け組織のようなもの。
信長様は柴田権六様や事務方の丹羽長秀様にその美濃から流れ込む莫大な富と良質な木材、そして三人衆が抱えていた熟練の兵たちを、尾張の組織へと溶け込ませる作業を命じた。
(……この四年間は、いわば『合併後の統合(PMI)』。異なる社風、異なる規律を持った美濃衆を、織田の『理』に馴染ませるための、もっとも泥臭く、もっとも重要な期間だったわ)
私は、事務方の要である丹羽長秀様と連携し、新たな給与体系(石高ではなく銭による報奨)の構築や、兵農分離の試験的な導入を進めた。本来なら二つの異なる組織同士に発生するはずの心理的な摩擦も、道三様という「名誉顧問」の存在が、最小限に抑えていた。
織田家は今や、単なる一国の武士団ではない。
尾張・美濃という二つの市場を実質的に支配し、圧倒的なキャッシュフローを誇る「新興の巨大勢力」へと変貌を遂げていたのである。
だが、その急成長を、東の巨人が黙って見ているはずもなかった。
◆◆◆
一五六〇年、五月。
ついに、東海の絶対強者――今川義元が動き出した。
動員兵力、四万五千。目的は上洛、そしてその経由地である「生意気な新興勢力」織田家の徹底的な粉砕である。
清須城の評定の間は、かつてない悲鳴に近い動揺に包まれていた。
「四万五千……。十倍以上の差だ。これではいくらなんでも勝負にならぬではないか!」
筆頭家老の林佐渡守の顔はすでに蒼白だ。
この四年間、組織を合理的に見るようになった家臣たちほど、この絶望的な数値の差に、真っ先に心が折れていた。皮肉なことに、知性がつくほど、この圧倒的な物量差に対して「勝てるわけがない」という結論が導き出されてしまう。
林佐渡守が、震える手で地図を指した。
「殿、ここは一時の恥を忍び、義元様へ降伏の使者を……!」
その言葉が終わる前に、凄まじい衝撃音が響いた。
信長様が、目の前の机を蹴り飛ばしたのだ。
「……無能どもが。貴様らの首から上は、飾りか?」
信長様が立ち上がると、広間の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。彼は林様の胸元を掴み上げ、床に叩き伏せた。
「林。貴様は今、四万五千という『数字』に怯えたな。目の前の敵を確かめず、ただその大きさに腰を抜かした。合理的という看板に寄り掛かったただの怯えにすぎぬ。そのような臆病者が我が組織に居座るなど、害悪でしかない。今この場で、その腐った首を撥ねてやろうか?」
剥き出しの殺意。柴田様さえも息を呑む。信長様は、平伏する家臣たちを一人ずつ、氷のような瞳で射抜いていった。
その 瞳には、一点の慈悲もなかった。彼は絶望する家臣たちを「部下」ではなく「不良在庫」を見るような目で見下ろしていた。
一時の沈黙。しかし平伏したまま、誰となく、声を上げる。
「殿! 此度は籠城して、今川の息が切れるのを待つしかございませぬ!」
「いや、四万五千に囲まれれば、各所の砦はすべて干し殺されます!」
噴出する弱気な意見を、信長様の鋭い一言が切り裂いた。
「……黙れ。数の多寡を論じて、何が生まれる」
信長様は、並み居る重臣たちを見下ろした。その瞳には、恐怖も迷いもなかった。
「義元は肥大しすぎた。四万五千を動かすには、あまりに多くの意思を介さねばならぬ。奴はもはや己の足元さえ見えておるまい。……案ずるな。沈むのは、あの重すぎる巨船だ」
それだけ言い残すと、評定を打ち切り、奥へと下がってしまった。
◆◆◆
(……十対一。普通に考えれば、これは大企業による強制的な買収ね。でも、信長様の仰る通り、今川家という組織は大きくなりすぎた。四万五千の意思を統一し、変化の激しい現場で即応させるのは、今の伝令の速度では不可能……ってことを言いたかったはずなんだけど、誰にも伝わらないわよ)
今川軍の弱点は、その『意思決定の遅延』にある。信長様の狙いは、その停滞を突いた一点突破。
ならば、組織の『速度』を最大化する準備をしなければ――
私は評定の間の外で、立ち尽くしていた丹羽長秀様に声をかけた。彼は事務方の統括として、日夜を問わず膨大な帳簿の整理に追われ、その眼には強い疲労が滲んでいる。
そしてその事務型統括は今、灯火の下で、呆然と帳簿を握りしめていた。数字に誰よりも向き合ったがために、従来の兵站システムでは四万五千に対応できないという限界を、誰よりも察知しているからこその絶望があるのだ。
「長秀様。殿の仰る『巨船の沈没』……それを実現させるのは、長秀様が整えたこの四年の『積み重ね』にございますわ」
長秀様は、自嘲気味に笑い、私を振り返った。
「帰蝶様。それがしが積み上げたのは、米の数と銭の勘定にございます。四万五千の巨軍を押し返す策は出て参りませぬ。殿は案ずるなと仰るが……、数字は嘘をつきませぬ」
「ええ、数字は嘘をつきません。ですが、長秀様。かつて大陸の『官渡の戦い』にて、曹操が十倍の兵を擁する袁紹を破った際、何が勝敗を分けたかをご存知ですか?」
長秀様は眉をひそめた。
「……曹操が、袁紹の兵糧庫を急襲したと聞き及んでおります。ですが、それは敵の脆弱な点を知り得たがゆえの幸運にございましょう?」
「曹操が勝ったのは、幸運ではなく『組織の摩擦』の差ですわ。袁紹の軍は巨大すぎて、将同士が疑心暗鬼に陥り、命令一つ届くのに一刻を要した。対して曹操の軍は小さく、それゆえに一人の意志が末端まで瞬時に行き渡った。……長秀様、今川の四万五千は、兵の数ではなく『重荷の数』なのです」
私は、長秀様が持つ帳簿の「米の量」ではなく、その「運搬に必要な人足の数」を指差した。
「これほどの大軍、道中の村々を通過するだけでどれほどの停滞が生まれるか、実務を司る貴方なら分かるはず。義元様が立ち止まり、その巨体を休めようとした瞬間……そこには、千載一遇の『隙』が生まれます。殿はその一点を見ておられます」
長秀様の呼吸が、わずかに速くなった。数値の羅列から、現場の「動き」という動的な計算へと、彼の思考がシフトし始めたのだ。
「……その一点を突く、と仰るのですか。しかし、四千が一気に駆け抜ければ、兵の足は乱れ、肝心の決戦の場に着く頃には息が切れましょう」
「だからこそ、長秀様が必要なのです。もし、兵たちが走りながら食し、止まらずに渇きを癒やせる道が、殿の進む先に整っていたら……どうなりますか?」
長秀様は目を見開いた。
「……迅道の備え。街道沿いの村々に、密かに握り飯と水、そして替えの草鞋を配し、兵より先に『兵站』を街道へ流し込んでおく……。道を兵に合わせるのですな」
「ええ。殿が命を下した瞬間に、この尾張の道すべてを、殿の進撃のための『水路』に変える。それができるのは、織田家の屋台骨である長秀様、貴方だけですわ」
長秀様は、しばし沈黙した後、筆を強く握り直した。その瞳からは絶望が消え、実務家としての鋭い輝きが戻っていた。
「……承知いたしました。この丹羽長秀が、勝利の道を敷いてご覧に入れます。清須から熱田、そしてその先まで。殿が駆け抜ける一歩一歩に、澱みは作らせませぬ」
丹羽長秀。
後に「米五郎左」――米のように、いなくては組織が立ち行かぬ実務の天才と称えられる男である。
◆◆◆
一方で、城の離れでは、道三様が藤吉郎を「猟犬」として解き放とうとしていた。
藤吉郎の目には、清須の家臣たちが抱くような恐怖はない。むしろ、信長様という「絶対者」に認められるための、飢えたような渇望が宿っている。
「藤吉郎。婿殿は、今川の『慢心』という隙を突こうとなさっている。貴様の仕事は、その隙がどこにあるかを暴くことだ」
道三様の冷酷な声に、藤吉郎はニヤリと笑った。
「ははっ。分かっております。今川の陣中、前線にいる国衆たちは、義元様の威光にすっかり酔いしれております。……奴らは『織田など相手にならぬ』と、今夜どこで酒を飲むかさえ容易く漏らしましょう。道三様から授かった闇の知恵、今こそ今川の喉元に突き立ててご覧に入れます!」
藤吉郎は、清須を包む不安な静寂を切り裂くように、闇の中へと消えていった。
◆◆◆
一五六〇年五月十九日、未明。
清須城内は、死の如き静寂に包まれていた。
だが、その静寂を切り裂くように、板張りの廊下を鳴らす足音が響く。
信長様が、広間の中心に立っていた。
彼は立ったまま、熱い湯漬け(茶漬け)を流し込むようにして胃に収めた。それはもはや食事という儀礼ですらなく、生存のための「補給」でしかなかった。
箸を置くと、信長様はゆっくりと、だがあまりに鋭い動作で扇を開いた。
一歩。
床が軋む。その瞬間、彼の口から低く、大地を震わせるような謡が漏れ出した。
「……人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」
扇が空を切り、信長様の体が緩やかに、かつ激しく旋回する。
四万五千の軍勢を前にして、彼は自らの人生という名の「資産」を、たった一瞬の「勝機」へと全張りしようとしていた。
「ひとたび生を享け、滅ぼぬ者のあるべきか……」
声は次第に熱を帯び、激しさを増していく。その舞は、神仏への祈りではない。
この世のすべては「不確実な幻」であり、ならばこそ自らの「意志」のみが唯一の真実であるという、凄まじい決意の表明だった。
舞うたびに飛び散る汗が、燭台の火に照らされて火花の如く光る。
私は、その舞を壁際で凝視していた。
(……なんて美しい、そしてなんて恐ろしいの)
「……出陣だ。熱田へ向かう」
その一言で、清須城という「組織」が動き出した。
門を出た織田の兵たちは、驚くべきことに自分たちがどこへ向かうのか、どこで腹を満たすべきかを熟知していた。長秀様が街道沿いの村々に密かに手配した「炊き出し」が、兵たちの足を一瞬たりとも止めさせなかったからだ。
信長様は馬に飛び乗り、私を一瞥もせず、ただ雨雲が立ち込める東の空を指差した。
「全軍、疾走せよ! 目標は義元の首、ただ一点!」
豪雨が降り始めた。
織田信長という名の「暴風」が、桶狭間の地へ向けて、一気に吹き抜けていった。




