第14話:邂逅「蝮」と「猿」
斎藤道三様を「名誉顧問」として迎えた織田家――通称・織田グループは、理論上、最強の経営陣を揃えたはずだった。
信長様の圧倒的な「理」と、道三様の老獪な「闇の知恵」。この二つが噛み合えば、日ノ本の市場を独占するのも夢ではないように思えた。
だが、現実はそう甘くない。
那古野から清須へと拠点を移した組織の内部では、深刻な「現場の目詰まり」が発生していた。
(……これは完全に、急成長中のスタートアップが陥る典型的な『組織の壁』ね)
私は、清須城の普請現場から届く進捗報告書を前に、こめかみを押さえた。
信長様の要求水準は極めて高く、一切の妥協を許さない。一方で、現場の足軽や職人たちは、武士としての情緒的な「やりがい」や「納得感」を求めている。この「経営層の理想」と「現場の体感」を繋ぐミドルマネジメント層が、今の織田家には絶望的に欠けていた。
柴田勝家様や林秀貞様は、信長様の「理」をそのまま現場に叩きつけるため、現場はただ恐怖し、思考を停止させている。
そんな折、清須城の門前で、一人の風変わりな男が騒ぎを起こしているという報告が入った。
「わしを信長様に会わせろ! 今の織田の馬屋は、無駄な費えが多すぎる。わしなら、三日でこれを半分にしてみせる!」
門番が追い払おうとする中、男が門前に叩きつけるように置いていった一枚の木簡。
それを受け取った私は、戦慄した。
そこには、馬屋の運営コスト削減案、厩肥の二次利用による利益創出、さらには資材の調達ルートを最適化する「供給網の改善」が、驚くべき緻密さで記されていた。
そして、末尾に記された署名に、私の心臓は跳ね上がった。
『木下藤吉郎』
のちの天下人。
墨俣一夜城の築城や、金ヶ崎の退き口など信長様の家臣時代のエピソードにも事欠かない、日本の歴史上最も有名な人物の一人。
私は、その今はただ「猿」とだけ呼ばれる男を、あえて信長様の執務室ではなく、道三様の居る隠居所へと連れて行った。
まずは歴史上でも、そして私の影響を受けた現在も、信長様の大器を見抜いた鋭い人物眼を持つ、道三様というフィルターを通したかったからだ。
現れた男は、猿のような顔立ちに、卑しき身分を隠そうともしない粗末な身なり。だが、その瞳だけは、獲物を狙う猛禽のようにぎらついていた。
「お初にお目にかかります。木下藤吉郎と申します。……ほほう、こちらがかの『マムシの道三様』でございますか。那古野で隠居されているとは聞いておりましたが、なるほど、毒気は少しも抜けておられぬ」
藤吉郎は、いきなり道三様を相手に不敵な笑みを浮かべた。並の武士なら震え上がる道三様の威圧感を、彼はまるで楽しんでいるかのようだ。
道三様は、手元の茶碗を置き、じろりと藤吉郎を睨みつけた。
「藤吉郎。わしの前でそのように喋り散らして、首が飛ぶとは思わぬのか」
「滅相もございません。ただ、首が飛ぶ前に、わしの知恵を一度お試しいただきたいと思いましてな。織田の家中は、今や殿の『理』に縛られ、皆が呼吸を止めております。それでは良い戦も、良い国造りもできませぬ。……わしなら、その『理』に火を灯し、皆を踊らせてみせましょう」
藤吉郎の言葉に、道三様の瞳が細められた。 道三様は、ゆっくりと立ち上がり、藤吉郎の周りを一周した。その様子は、市場で一頭の悍馬を品定めする商人のようでもあり、獲物を見極める捕食者のようでもあった。
道三様は木簡を手に取り、一瞥した。 初めは鼻で笑っていた道三様の顔が、次第に険しく、そして研ぎ澄まされたものへと変わっていく。
「……ほう。数えだけではないな。この『人を生かすための隙』の作り方……。ただの小役人の知恵ではない」
道三様は立ち上がり、藤吉郎の周りをゆっくりと歩いた。 それは、獲物を見極める蛇の動きであり、同時に、自分と同じ「人ならざる器」を測る、創業者の厳しい鑑定であった。
「藤吉郎。貴様、なぜ武士を志す。今の世、お前のような知恵があれば、商人として一生楽に暮らせよう」
藤吉郎は、畳に手をつき、ニヤリと笑った。
「商人では、この日ノ本という大きな盤面を動かせませぬ。わしは、殿が掲げる『理』の世を、誰よりも近くで見てみたいのです。……そして、殿が切り捨てた『情』という名の塵を拾い集め、それを力に変えて、殿の覇業を支えたい。……わしには、それができる」
道三様は、しばらく沈黙した後、声を上げて笑い出した。その笑い声には、信長様を見出した時と同じ、深い愉悦が混じっていた。
「面白い……実におもしろいぞ、帰蝶」
道三様は、膝を叩いて快哉を叫んだ。その視線は、平伏する藤吉郎を射抜いたままだ。
「信長殿が『天の理』を説くならば、この猿は『地の情』を食うか」
道三様の笑い声が、薄暗い奥の間に響き渡る。それは、長良川で死の淵から拾い上げられて以来、私が聞いた中で最も若々しく、そして最も不気味な響きを湛えていた。
藤吉郎は伏したまま動かない。だが、その背中が微かに震えているのを私は見逃さなかった。恐怖か、それとも未だかつて味わったことのない高揚か。
「面を上げよ、藤吉郎」
道三様の言葉に、藤吉郎がゆっくりと顔を上げる。その瞳は、先ほどまでの不敵な光を一度消し、まるで深淵を覗き込むような、虚無に近い純粋な好奇心に染まっていた。
「……藤吉郎。貴様は先ほど、信長殿の切り捨てた『情』を拾うと言ったな」
道三様は、使い古された扇子で藤吉郎の顎をぐいと持ち上げた。
「信長殿は天を歩む男だ。その歩みは速く、あまりに正しい。ゆえに、地を這う虫けらどもの痛みなど分からぬ。一顧だにせぬであろう。虫けらを踏んだかなど、貴様も日ごろ気にもかけまい。同じことよ。
だがな、国というものは虫けらどもの死骸の上に建つ。その死骸が腐れば、国という柱もまた腐る」
道三様は、藤吉郎の瞳の奥に自分と同じ「闇」を見出そうとしていた。
「わしは、かつてその腐った土壌を強引に踏み固め、美濃を握った。だが、わしには『理』が足りなんだ。ゆえに、実の息子に足元を掬われた。……信長には『理』がある。そして貴様には、その土壌を熱狂で固める『愛嬌』という毒がある」
「毒……でございますか」
藤吉郎が掠れた声で漏らす。
「そうだ。人は理屈では動かぬ。だが、欲望と、それを見せてくれる者への心酔……すなわち『狂気』なら、命を投げ出して動く。貴様は、その狂気を操る術を本能で知っておる」
道三様は扇子を引くと、傍らにあった古びた地図を藤吉郎の前に放り投げた。
「藤吉郎。今日からわしの所に通え。わしがこれまで培ってきた『人を欺き、人を動かし、人を使い潰す』ための全ての闇を、貴様のその薄汚い脳髄に叩き込んでやる」
藤吉郎の目が、驚愕に見開かれた。
この瞬間、歴史が大きく軋んだ。史実において、秀吉は信長という唯一無二の師の下でその才能を磨いた。だがこの世界線では、さらに「戦国最恐の知略家」である斎藤道三が、その完成を早めるための教育を施そうとしている。
「……わたくしめのような身分もなき者が、マムシの道三様の知恵を授かれると?」
「身分など、信長の世では何の意味も持たぬ。必要なのは『器』だ。……貴様、わしを師と仰ぐ覚悟はあるか?」
藤吉郎は、今度は嘘偽りのない敬意を込めて、深く、深く畳に額を擦りつけた。
「……木下藤吉郎、命に代えましても。道三様の仰る闇、一滴残らず飲み干してご覧に入れます」
その光景を横で見ていた私は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
道三様が救われたことで生まれた、この師弟関係。それは信長様を支える最強の矛と盾になるだろう。しかし、同時にそれは、史実以上の怪物を生み出してしまうことにならないだろうか。




