第13話:長良川の戦い、改変
一五五六年、四月。美濃・長良川。
春の増水を湛えた川の流れは、これから流れるであろう夥しい血を予見するように、鈍く濁っていた。
北岸に陣を敷く斎藤義龍は、対岸にひしめく一万七千の自軍を眺め、深い満足感に浸っていた。
彼にとって、この戦は単なる親殺しではない。古き権威を盾に、自分という新しき時代の旗頭を認めようとしない老いた父――斎藤道三という「老害」を、美濃の地から完全に排除するための聖戦であった。
(父上。貴方の時代は、この川の流れと共に終わるのだ)
義龍は、床几に深く腰掛け、指先で刀の鍔を弄んだ。
父・道三が、尾張の「うつけ」を高く評価しているという噂は、義龍の耳にも届いていた。正徳寺での会見以来、道三は口を開けば信長を褒めちぎり、あまつさえ「わが子らは、彼の門外に馬を繋ぐことになる」とまで言い放った。
その言葉は、嫡男として斎藤家を支えてきた義龍の自尊心を、これ以上ないほどに切り刻んだ。
(血の繋がらぬ婿を世継ぎのごとく慈しみ、血の繋がったわしを、旧き掟に縋るだけの凡夫と断じるか。……ならば見せてくれよう。貴公が重んじる『新しき理』とやらが、一万七千の武士が掲げる『義』の前に、いかに無力であるかを!)
立ち上がり、対岸の道三の小陣を鋭く見据えた。
義龍には確信があった。数こそが日ノ本の理であり、斎藤家の正統なる血脈こそが美濃を統べる唯一の拠り所である。父を殺し、その首を掲げることで、初めて自分は「斎藤義龍」としてこの世に確立される。
「全軍、抜かりはないな。……マムシの首、このわしが直々に検分してくれるわ」
義龍の号令に、一万七千の兵が地鳴りのような鬨の声を上げた。
◆◆◆
一方、川の南岸。わずか二千の手勢と共に袋の鼠となった斎藤道三は、本陣で独り、静かに茶を啜っていた。 死を覚悟した者の静寂ではない。その瞳には、かつて美濃を盗り、一国を支配したマムシのギラついた知性が、今なお鈍く光っている。
(義龍よ。数に頼るだけの平庸な将では、この先の荒波は越えられん……。お前が守ろうとしているものは、もはや崩れゆく砂の城に過ぎぬのだ))
道三は懐に、帰蝶から届いた密書と、先刻したためた「国譲り状」を収めていた。
本来、彼はここで戦死する運命にあった。マムシとしての美学に則り、息子に首を差し出すことで物語を終えるはずだった。だが、帰蝶の言葉がそれを許さなかった。 『死んで逃げるのは、無責任です』。
その一言が、道三の中に「生き残って知恵を継承する」という、武士の美学を超えた新たな使命感を芽生えさせていた。
「……くく、帰蝶。わしの娘よ。お前はわしに、泥水を啜ってでも信長の盾になれと言うか。……よかろう。マムシの知恵、あの婿殿にいかほどで売れるか、試してみるも一興よ」
道三が立ち上がり、大刀を手に取ったその時、戦場の西側から、地響きのような蹄の音が響き渡った。
◆◆◆
一五五六年四月二十日、正午。
長良川を挟んで対峙した斎藤義龍の一万七千と、道三の二千がついに激突した。
義龍軍の先陣、竹腰道鎮が怒濤の勢いで川を渡る。数に勝る義龍軍の攻撃は、まさに暴力的なまでの質量であった。対する道三軍は、老獪な指揮で一時的に敵を押し戻すものの、じわじわと包慮の網は狭まり、南岸の陣地は「死」という名の巨大な渦に呑み込まれようとしていた。
「父上! 貴公が愛でた『うつけ』はどこにいる! 結局、この戦場では数こそがすべてよ!」
本陣に座る義龍が、狂喜に近い咆哮を上げる。
戦場は、伝統的な武家の作法による、泥臭い殺し合いの極致にあった。
道三の本陣が、ついに義龍軍の包囲に完全に孤立したその時だった。
西側の河原、砂塵を巻き上げ、地響きを立てて疾走する一団が現れた。
それは、義龍軍の一万七千から見れば、豆粒のような小さな塊に過ぎない。わずか数百。だが、その動きはこれまで誰も見たことがないほど「異様」であった。
「な……何だ、あの速さは。狂っておるのか!」
義龍の将たちが呆気にとられる。 彼らが驚愕したのは、単なる足の速さではない。通常、あのような速度で駆ければ、馬の足並みは乱れ、兵の列は千切れ、陣形は霧散する。それは戦場において「統制を失った暴走」を意味する。
しかし、その数百の騎馬隊は、まるで一本の槍が空を切り裂くように、一糸乱れぬ密度のまま加速し続けていた。
歴史よりも早く始まった、試験的な兵農分離。職業軍人として訓練を受けた騎馬隊は、当時の技術水準をいつの間にか遥か超えていた。
先頭を走るのは、織田弾正忠信長。 その背後には、負債返済に燃える柴田勝家が、「盾」となって敵の横槍を力ずくで弾き飛ばしている。
「権六! 見えるか、林が薄い。そこを砕け! 道を空けさせれば、それで事足りる!」
信長様は声を張り上げるが、そこには戦場特有の高揚感が一切混じっていない。
彼の目は、一万七千の兵力差も、戦場の混沌も、すべてを冷静に見据えていた。どこを叩けば敵の指揮が遅れ、どの瞬間に踏み込めば道三を救い出せるか。その「最短の手筋」だけが、彼の視界には光り輝く道として浮かんでいた。
「他は捨て置け。我らが狙うは一点……マムシの回収のみ!」
義龍軍の重厚な包囲網が、信長の一点突破によって、まるで薄い紙のように切り裂かれる。
義龍の将兵たちは、そのあまりの速度に反応すらできなかった。迎撃の準備を整える前に、織田の騎馬隊はすでに自分たちの側面を通り抜け、背後へと突き抜けている。
「な……何だ、あの動きは」
義龍が絶句したのは、単なる足の速さではない。 通常、数百もの騎馬がこれほどの速度で駆ければ、馬同士が接触し、列は乱れ、陣形は霧散する。それは戦場において「統制を失った暴走」として、討ち取るに容易な獲物に見えるはずだった。
しかし、その数百は違った。 まるで一柱の巨大な魔物が大地を滑っているかのように、一糸乱れぬ密度のまま加速し続けていたのだ。
それは義龍が知る「戦」の常識を根底から揺さぶる光景だった。 足並みが揃いすぎている。あまりにも迷いがない。それは「勇猛な武士の集まり」というよりは、「一個の巨大な生き物」が、意思を持って敵陣を切り裂こうとしている不気味さであった。
(あれは……本当に人の軍勢か。ただの一騎も、己の功を求めて列を外れぬというのか……!)
武士は手柄を求めて先を競うもの。それが当然の戦場において、数百の個性を消し去り、主君の指先のように動くその「徹底した統制」に、義龍は背筋が凍るような戦慄を覚えた。
驚愕に目を見開く道三の本陣。 その最奥、道三の眼前に、返り血を浴びた信長様が馬を躍らせた。 周囲の兵たちが、その異様な威圧感に気圧され、道を開ける。
「道三。貴様の首を義龍に渡すは、あまりに無益な費えよ」
信長は、馬を寄せ、道三を見下ろした。その瞳には「義父を助けに来た」という慈悲などは一片もない。そこにあるのは、損失を回避し、利益を確保しようとする経営者としての絶対的な確信だけだ。
「貴様が持つ、その老獪なる知見……私がすべて買い取った。死んで逃げることは許さぬ。那古野で、私にその知恵をすべて供出しろ」
道三は、呆然とした後、天を仰いで笑い出した。 死を覚悟したマムシの瞳に、再び「生の執着」ではなく、新しき理に対する「知的な好奇心」が灯る。
「……く、くくく。婿殿。救いに来たにしては、何とも可愛げのない物言いよ。……よかろう。マムシの知恵、安くはないぞ」
「構わぬ。その価値、私が底まで使い切ってやる。……乗れ!」
信長様が差し出した手を、道三が掴む。
道三を予備の馬に乗せると、信長様は即座に反転を命じた。
「反転! 殿部隊、火薬を使え! 敵の視界を奪え!」
追撃しようとする義龍の軍勢に対し、あらかじめ配置されていた殿部隊が、一斉に鉄砲を放った。弾丸を当てることよりも、その爆音と煙で敵を怯ませ、足を止めさせることを優先した精密な「攪乱」である。
義龍が気づいた時、戦場の中心からは、奪い去られる「マムシの影」と、その後ろを遮る白煙だけが残されていた。
一万七千の軍勢を擁しながら、目の前で「勝利の象徴」であった父の身柄を、わずか数百の影に奪い去られたのである。
◆◆◆
私は那古野城の奥まった離れに立ち、庭を眺めていた。
信長様が率いた精鋭たちは、大きな損耗を出すこともなく帰還した。今回の行軍は極めて精密な、いわば「予定された成果」であった。
(……父上を無事に『回収』できた。これで、信長様の孤独な知性を支えるための、最高の外部顧問が織田グループに加わったことになる)
私は、離れの奥から聞こえてくる二人の声に耳を澄ませた。
そこには、かつての「うつけ」と「マムシ」ではなく、一つの巨大な「理」を共有し、日ノ本の設計図を描き直そうとする二人の怪物の姿があった。
那古野の風が、初夏の香りを運んでくる。
道三様はニヤリと笑い、懐から一枚の書状を取り出した。
「これが、わしの書いた『美濃国譲り状』だ。これがある限り、義龍はただの賊だ。そして、これを持つ貴殿は、斎藤家の正統なる後継者。……この紙一枚が、どれほどの兵数に匹敵する利を生むか、貴殿なら理解できよう?」
信長様は、その書状を無造作に、だが確かな手つきで受け取った。
義龍は美濃という土地を手に入れたが、同時に、父を殺し損ね、かつ信長様に「正統なる国譲り状」を奪われた。政治的、法的に、彼は「正統な後継者」から「ただの賊」へと、その地位を転落させたのだ。
(義龍様……。今のあなたはただの『不法占拠者』。法的根拠を欠いたガバナンスが、これからの新時代にどれほど脆弱か……。これから思い知ることになるわよ)
私は、凛とした気持ちで空を仰いだ。
政秀様を失った喪失感は消えない。けれど、その遺志は、道三様という新たな知恵と、信長様の研ぎ澄まされた理の中に、確かに組み込まれている。
織田・斎藤グループ。 その巨大な「理」の連合艦隊が、ついに天下という大海原へ向けて、一歩も引かぬ進軍を開始した。




