第12話:マムシの継承
那古野城内には、凍り付くような緊張感が日常として定着しつつあった。
筆頭家老・平手政秀という「組織の緩衝材」を失った織田家は、今や信長様という超高性能な演算装置が剥き出しで駆動しているような状態だ。
廊下ですれ違う柴田権六勝家は、以前の豪放さは影を潜め、取り憑かれたように練兵と版図の視察に明け暮れている。林佐渡守秀貞に至っては、目の下に深い隈を刻みながら、山のような検地帳と格闘していた。
信長様が課した「平手政秀の死という損失分を埋める」という過酷な成果目標は、家臣団の士気を高めるどころか、組織全体を慢性的な疲弊の寸前まで追い込んでいた。
(……まずいわね。今の織田家は、完全に『ブラック企業の急成長期』そのもの。組織の風通しも最悪。いずれ本能寺へ至る組織内の『不満の蓄積』が、今この瞬間も積み上がってしまっている)
私は自室で、現代の組織管理表を模した書付を前に溜息を吐いた。
信長様の「理」は正しい。だが、人間は理屈だけでは動かない。特にこの時代、家臣は「主君への敬愛」という極めて情緒的な報酬で動く側面が強い。信長様は、その「情緒」をほとんど無価値として切り捨てていた。
そこに、美濃の斎藤道三様――我が父から、一通の密書が届いた。
内容は、斎藤家における「お家騒動」の深刻化。嫡男・斎藤義龍による、道三様への反旗である。
(来たわね。史実における『長良川の戦い』。斎藤義龍が父・斎藤道三様の解任と抹殺を狙った、敵対的買収)
現代風に言えば、義龍は「旧来の既得権益を守ろうとする保守派の取締役」だ。彼は道三様が進める織田家との業務提携(同盟)を「美濃を売り渡す行為」と断じ、レガシーシステムにしがみつく国衆たちを扇動して、道三様を強制解任(暗殺)しようとしている。
私は即座に、信長様の執務室へと向かった。
「殿。美濃にて不穏な動きがございます。義龍様が挙兵し、父上を討たんとしております」
信長様は地図を見つめたまま、微塵も動かない。その瞳は、瞬き一つせず戦況の推移を数理的に追い続けている。
「道三は、己が育てた後継者の質を見誤った。その失策の報いを受けるのは道理だ。……今さら、負け戦を救う利がどこにある」
「利は、土地ではなく『知恵』にございます」
私は間髪入れずに言葉を重ねる。
「父上は、戦わずして国を盗り、人心を操る『仕組み』を一代で築き上げました。その謀略の蓄積、調略の手法は、今の織田家が喉から手が出るほど欲しているアセット……資産です。
……殿。政秀様を失った今、殿に真っ向から意見し、かつ殿の知性をさらに研磨できる『大人』が家中におりませぬ。道三様を織田家の知恵袋……名誉ある隠居人として迎え入れることは、将来的に美濃を呑み込む際の、最大の近道となります」
信長様は、地図から視線を外し、私を射抜くような眼差しを向けた。その沈黙は、私という「投資顧問」が提示した提案の妥当性を、冷徹に精査している時間だった。
「……マムシを、我が懐に飼えと言うか」
「はい。義龍様に美濃という『器』は譲り、中身である『マムシの知恵』だけを我が方が引き抜くのです。これは美濃との無益な消耗戦を避けるための、最も効率的な買収工作にございます」
信長様は、ゆっくりと立ち上がった。その口元に、わずかな、だが鋭い嘲笑が浮かぶ。
「数、理、そして将来の利。……よかろう、帰蝶。マムシという名の知恵、その価値を私が使い潰してやる」
交渉成立だ。信長様は、情ではなく、道三様が持つ「経験という知的財産」に価値を見出した。
◆◆◆
斎藤義龍。歴史上最も有名な親殺しの一人。蝮を食い殺した男。
稲葉山城の奥深く、薄暗い広間に、美濃を支える有力な国衆たちが集まっていた。
上座に座る斎藤義龍は、重苦しい沈黙の中で、手元の扇を指が白くなるほど強く握りしめていた。
(父上……貴方は、どこまで我らを、この美濃を侮れば気が済むのだ)
義龍にとって、父・道三はもはや敬うべき当主ではなかった。
かつて「マムシ」と恐れられたその男は、今や尾張の「うつけ」に心酔し、美濃の伝統ある統治を根底から覆そうとしている。信長が持ち込んだ「兵と農の峻別」や「槍の長さを揃える規律」といった異様な手法を、道三は諸手を挙げて称賛し、あまつさえ美濃の豊かさをその実験場として差し出そうとしている。
「佐渡守(安藤守就)、伊賀守(氏家卜全)……。皆も、此度の父上の振る舞い、看過できまい」
義龍が低く問いかけると、美濃三人衆と称される有力者たちが、一様に苦渋に満ちた表情で頷いた。
「左様にございます。道三様は、我ら国衆が代々守ってきた土地の権利を軽んじ、織田のやり方を強引に押し付けようとしておられる。あれはもはや、マムシではなく、尾張の犬に成り下がったも同然にございます」
彼らが恐れているのは、信長が進める「徹底した合理化」であった。
領地の境界を曖昧にし、物流を統制し、個々の国衆の独立性を奪って一つの巨大な組織へと統合する。それは、これまで自分たちが享受してきた自由と権益の消滅を意味していた。
(父上は、この美濃という家を、織田という新興の勢力に格安で売り渡そうとしている。……ならば、私が実力でこれを取り戻すまでだ)
義龍は立ち上がり、集まった者たちを鋭く見据えた。
「父上は、わしを差し置き、弟の孫四郎、喜平次を偏愛し、わしから当主の座を奪おうとしている。……美濃の掟を守るため、そして斎藤家の正統を守るため、わしは決断した。……道三を討つ。これより、我らが美濃の真の主導権を取り戻すのだ!」
広間に、どよめきと、それに続く不穏な決意の地鳴りが響いた。 義龍にとって、これは単なる親殺しではない。保守的な価値観を守るための「義戦」であり、自己の存在価値を証明するための最終手段であった。
◆◆◆
信長様の決断を引き出した後、私はすぐに自室へと戻り、一枚の文をしたため始めた。
現代の視点から見れば、今の織田家は極めて危険な「急成長期」にある。平手政秀様という人事の要を失い、信長様の「理」が剥き出しで家臣団を追い詰めている。このままでは、組織が内側から焼き切れてしまう。 だからこそ、父・道三様という「老獪な知恵」が必要だった。父上を救い出すことは、単なる家族愛ではない。織田家のガバナンスを安定させるための、外部顧問の招致なのだ。
(でも、父上は誇り高い『マムシ』。ただ『助けてあげる』と言っても、あの人は聞かないでしょうね)
私は墨を磨り、言葉を選んだ。
情緒に訴えるのではなく、父上が積み上げてきた「智謀」という資産を、いかに信長という新時代のシステムに組み込むべきか。それを「責任」として突きつける内容にする必要がある。
「……よし。これでいきましょう」
文には、あえて厳しい言葉を並べた。 『父上、死んで逃げるのは、この世で最も無責任な振る舞いです。あなたが一代で築き上げた調略の極意、人心を操る闇の知恵……。それらを残さずこの織田に伝え、新しき世の礎とすることこそ、あなたが最後に果たすべき職責ではありませんか』
私は、信頼できる美濃出身の忍びを呼び出した。
「これを、鷺山の父上へ。義龍様が動く前に、必ず」
忍びは音もなく頷き、闇に消えた。
(もしも歴史に強制力のようなものがあるとすれば、なおさら間もなく『長良川の戦い』は起こるはず。まったく歴史は変えられないというわけではないはずよ……。遅れたり、速まったりすることは間違いなくある。なら、今度こそは殺させない)
◆◆◆
一方、稲葉山を追われ、鷺山城に隠居を装っていた斎藤道三は、独り、月を眺めて酒を煽っていた。 そこに、音もなく現れた忍びが、一通の密書を差し出した。
「……帰蝶からか」
道三は、蝋燭の火の下で文を開いた。
義龍が挙兵準備を進めていることは、疾うに察している。そして、美濃の国衆の多くが、己ではなく義龍に味方したことも。
道三が信長という「理」を高く評価すればするほど、変化を拒む美濃の細胞たちは拒絶反応を起こし、義龍という「守旧の旗頭」を担ぎ上げたのだ。
「……く、くくく。相変わらず、可愛げのない娘よ」
文を読み終えた道三は、自嘲気味に笑った。 『死んで逃げるのは、無責任だ』。 その言葉は、道三の肺腑を貫いた。
彼は、自らの最期をこの長良川で華々しく飾ることこそが、マムシとしての散り際だと考えていた。だが、帰蝶の文は、その「死の美学」を、ただの「職務放棄」として一蹴したのだ。
(わしが築いた知恵を、信長に伝え、使い潰させろ……か。お前は、このマムシを、死後の冥土にまで連れて行かぬつもりか)
道三の瞳に、かつてのギラついた知性が戻る。
もし、信長が那古野で見せたような「理」が本当にこの世を統べるのなら。 己が積み上げてきた「謀略」や「人心掌握」という泥臭い知恵を、すべてその「理」の糧として差し出すことこそ、マムシが成すべき最後の仕事ではないのか。
「……義龍。お前は、数だけは揃えたようだが、その本質はただの『足踏み』よ。あのような器では、信長という名の激流には耐えられん。……わかった。帰蝶、お前の言葉、受けて立とうではないか」
道三は、文を火にくべた。
外からは、義龍の先陣が放つ時が声が、夜風に乗って微かに聞こえ始めていた。
一万七千の兵力をもって、父を、そして「革新」を押し潰そうとする息子の声だ。
「信長殿。貴殿の『数』と、私の『闇』。それが交わった時、この日ノ本にどのような景色が現れるか……。冥土への土産にするには、いささか惜しくなったわ」
道三は、文机に向き直り、一枚の白紙を広げた。
墨を磨る音だけが、不気味に静かな部屋に響く。
(義龍よ。お前はわしを殺し、美濃を手にするつもりであろう。だが、地を手にしたところで、そこに『理』がなければ、それはただの砂山よ)
道三の筆が、滑るように走り始めた。
『美濃一国、織田上総介に譲り渡す儀、一点の曇りもなし』
それは、歴史に名高い「道三の国譲り状」であった。
だが、今の道三が書くその一筆には、史実以上の重い「意図」が込められていた。
「義龍。お前が力で奪い取ったその美濃は、この一筆により、明日から『奪われた織田の領地』に変わる。お前は当主ではなく、ただの賊となるのだ」
筆を止め、文字を眺めた。 美濃を譲る。己の全てとも言えるこの美濃を信長に預けることで、義龍の支配から「正統性」という骨を抜き、ただの抜け殻にしてしまうのだ。
(信長殿。貴殿の『理』は、このマムシの知恵という毒を食ろうて、なお貫き通せるか。……死ぬより辛き隠居暮らし。娘にこれほどまで言われては、受けぬわけにはいくまいよ)
書き終えた譲り状を、懐に入れた。
これは、自分が生き残って那古野へ辿り着いた時、信長に突きつける「契約書」となる。
道三は立ち上がり、鈍く光る大刀を腰に差した。 その瞳には、死を覚悟した隠者の影はもはやなく、戦国を遊び尽くした創業者の、ギラついた野心が再燃していた。
戦場は長良川。
一万七千の「旧弊」と、数百の「革新」が激突する、運命の決算が始まろうとしていた。
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