第10話:抹香投げ ~弔いのリブランディング~
一五五三年(天文二十二年)、秋。 大須・萬松寺の境内は、静寂と不穏に支配されていた。
葬儀とは、死者を送る儀式であると同時に、組織の価値を市場に知らしめる最大の宣伝活動でもある。特に、先代当主である織田信秀様が逝去した今、この萬松寺に集まった千人を超える参列者たちの目は、悼むためだけではなく「値踏み」するために注がれていた。
つい先日、稲生の戦いにおいて、信長様は倍以上の軍勢を誇る信行派を、合理性と新戦術で粉砕した。その衝撃的な「実績」は、瞬く間に近隣諸国へと伝わっている。
境内の隅々には、駿河の今川義元、あるいは伊勢の勢力から送り込まれた間者たちが潜んでいる。彼らは、織田の新しき主が「一過性の幸運」に恵まれただけのうつけか、それとも「真に危険な怪物」かを見極めようと、獲物を狙う獣の如き鋭い視線を向けていた。
私は本堂の脇、参列者からは死角となる位置で、最後の手直しを終えた。 鏡の前に立つ織田信長様は、現代のトップエグゼクティブが勝負スーツを纏った時のような、凄烈なまでの覇気を放っている。 麻裃は、最高級の生地を使いながらも、あえて過度な装飾を排した。清潔感と、有無を言わせぬ規律。これまでの「うつけ」という評価を一気に覆すための、計算され尽くした正統な後継者としての装いだ。
「殿。準備は整いました。稲生での勝利という『動』の結果に、この葬儀での『静』の威厳を重ねる。この落差こそが、不穏な家臣団に絶対的な安心感を与え、他国の間者たちに『織田は底が知れない』という恐怖を植え付けます」
私の言葉に、信長様は表情一つ変えず、ただ一度だけ頷いた。その瞳の奥には、父を失った悲しみよりも、これから始まる巨大な組織再編への覚悟が、冷たく、深く沈んでいた。
「……行くぞ」
低く響く声と共に、彼が歩き出す。 板張りの回廊を叩く足音が、緊張で張り詰めた境内に、メトロノームのように正確なリズムを刻んでいく。
本堂へ現れた信長様の姿を見た瞬間、参列者たちの間に「絶句」という名の静寂が広がった。
誰もが期待していた――あるいは嘲笑う準備をしていた――「うつけの奇行」はどこにもない。そこにあるのは、誰よりも家督継承者に相応しい、威厳に満ちた若きカリスマの姿だった。
(……よし。第一印象は完璧ね)
私は控えの間から、その光景を注視していた。
信行様を推していた林 秀貞や、周辺諸国の間者たちが、明らかな困惑の色を見せている。彼らが用意していた「無能な当主を追い出すための理屈」や「織田家を呑み込むための隙」が、前提条件から崩れ去ったのだ。
信長様は静かに、そして流れるような所作で位牌の前へと進む。 その背中に、織田家の家臣たちの期待と畏怖が集中する。平手政秀様――この組織を長年支えてきた筆頭老臣は、本堂の最前列でその光景を見守り、目尻を熱くさせていた。本来の歴史では、信長の行く末を嘆き、死を以て諫めた老臣にとって、この「新しき織田」の胎動は、何よりの報いだったはずだ。
信長様が指先で香を掬い、静かにくゆらせる。 完璧だ。一分の隙もない。このまま儀式が終われば、織田信長というブランドは盤石なものとなり、組織の健全化に向けた最大のハードルは越えられるはずだった。
だが、その時。
「――おのれ……! おのれぇ、兄上ッ!」
均衡を破ったのは、獣のような叫び声だった。 焼香の列から飛び出してきたのは、織田信行様だ。 その姿に、私は息を呑んだ。
本来、端正で品行方正を売りにしていた「優等生」の面影はどこにもない。髪は乱れ、目は血走り、装束は泥に汚れたかのように薄汚れている。
信行様は、完璧な「正解」を体現する信長様に耐えられなかったのだ。
それは単なる嫉妬ではない。魂の悲鳴だ。古い織田家という、自分が唯一輝けた居場所を奪われた絶望が、彼を狂わせていた。
「父上を……父上を、よくもそんな澄ました顔で! この嘘つきめ! 織田を、父上の愛した織田を、貴様のような冷徹な怪物が乗っ取るというのか!」
信行様は、焼香台に置かれた抹香の器をひったくると、狂ったように笑い出した。
「死ね! 織田を壊す者など、父上の前で消えてしまえ!」
信行様の手から、黒い抹香の塊が投げ放たれる。 それは信長様の顔を狙ったものではなかった。父・信秀様の、織田家の象徴である位牌へと、呪詛と共に叩きつけられた。
乾いた音が境内に響き渡る。 参列者たちの悲鳴。他国の間者たちが、この「決定的な不祥事」を逃すまいと身を乗り出す。 信長様は動かない。ただ、投げつけられた抹香を、頬に一粒も浴びることなく、冷徹なまでの静寂を保って立ち尽くしている。
しかし、その静寂は、次の瞬間に訪れる悲劇の前触れに過ぎなかった。
「……信行様! 何ということを!」
列から飛び出したのは、平手政秀様だった。 彼は信行様の暴挙を止めるべく、その痩せた体を割り込ませた。老いた体は武将としてはいささか頼りない。だが、この「家命に関わる不祥事」を見過ごすことはできなかった。彼が守ろうとしたのは、単なる規律ではない。信長様がようやく作り上げ、政秀様自身が夢見た「織田家の未来」そのものだった。
「どけ! どけ平手! 貴様も兄上の毒に当てられたか! 裏切り者がッ!」
「お気を確かに! 信行様、これ以上は……これ以上は、取り返しのつかないことになります!」
政秀様が、信行様の肩を掴み、その狂乱を鎮めようと必死に訴える。 だが、今の信行様に、老臣の理性的な説得は届かない。彼は、帯の間から脇差しを抜き放つ。その鞘走った鋭利な光が、萬松寺の線香の煙を切り裂いた。
(……いけない!)
私が叫ぼうとした瞬間には、もう遅かった。
狂乱に任せて振り回された刃が、無防備に信行様を抱きとめようとした政秀様の脇腹を、深く貫いた。
――時が、止まった。
鮮血が、萬松寺の白砂を汚していく。 信行様は、自分の手に伝わった嫌な感触に、ハッと正気を取り戻したように目を見開いた。
「あ……あ、あ……」
政秀様の体が、ゆっくりと崩れ落ちる。 それを支えたのは、誰よりも早く動いた信長様だった。
「じい……!」
信長様の声が、初めて震えていた。 完璧な当主としての仮面が剥がれ落ち、そこには一人の青年としての、剥き出しの悲痛が覗いていた。
「……若……。申し訳、ございませぬ……」
政秀様は、信長様の腕の中で、血に染まった唇を震わせながら笑った。 その瞳は、もはや信行様を見てはいない。自分たちが作り上げた、この「新しき織田の主」だけを、慈しむように見つめていた。
「信行様は……御心が、少々弱かっただけ……。どうか……織田を……汚されますな……」
政秀様は最後に、信長様の震える手をぎゅっと握りしめた。
「若。……あなたは、もう……一人ではありませぬ。帰蝶様という……最高の支えが……」
それが、彼の最後の「進言」だった。 織田家の繁栄を誰よりも願い、新旧の橋渡し役に奔走した最高の老臣は、主君の腕の中で、静かに、だが満足げにその生涯を閉じた。
本堂は、墓場のような静寂に包まれていた。 信行様は腰を抜かし、自分の血塗られた手を見つめて震えている。 重臣たちは、あまりの事態に動くこともできない。
その中心で、信長様はゆっくりと立ち上がった。 彼の膝には、政秀様の血がべっとりと付着している。完璧だったブランドイメージは、今、この瞬間に「身内の殺し合い」という最悪の不祥事によって汚された。
信長様は周囲を見渡さない。ただ一点、信行様を見据えて冷徹に放った。
「――権六(勝家)。これを捕らえよ。抵抗せば、首を撥ねて構わぬ」
その言葉は、最短にして最適な決断だった。 信長様は気付いている。政秀様の死という莫大な代償を支払った以上、この不祥事を逆手に取り、信行様という「旧弊の不純物」を一掃する好機であることに。
だが、その冷徹さは、参列した諸大名の間者や、困惑する家臣たちの目には「実の弟を即座に捨てる非情な怪物」として映るかもしれない。
このままでは、織田家という組織は、恐怖によってバラバラに分解してしまう。
私は一歩前に出た。今こそ、私の仕事だ。
「……皆様、お聞きください」
私は凜とした声で、場を支配する。
「今、平手政秀様は、その命を賭して織田の未来を守り抜かれました。信行様の乱心は、旧き織田が抱えていた膿。それを政秀様が引き受け、散られたのです。……信長様が下された決断は、殉教した忠臣への、最大級の弔いにございます」
私は、震えている信行様を冷徹に見下ろした。
「これより、織田家は不浄を清算し、真の新生へと向かいます。政秀様の死を、ただの悲劇に終わらせるか。それとも新時代の礎とするか。……選ぶのは、皆様です」
私の「翻訳」を背中で聞きながら、信長様は血に汚れたままの姿で、本堂を立ち去る。その横顔には、織田家を一手に引き受ける覚悟が刻まれていた。
間者たちが、息を呑む。彼らの眼前に立ち塞がったのは、悲劇を養分にして真の「魔王」へと至る、若き天才の姿だった。
(政秀様、見ていてください。あなたの死という代償、私が必ず利益に変えてみせます。この物語を、必ず……本能寺という名の破局から、救ってみせますから)
秋の風が、萬松寺を吹き抜ける。 織田家の「第二創業期」は、最も信頼すべき老臣の鮮血と共に、その幕を開けた。




