第8話:稲生の決戦 ~軍事合理性の証明~
本来の歴史――私がいた未来の教科書によれば、この戦いが起きるのは織田信秀様の死を経て、一五五六年のことだったはず。 私が帰蝶として生まれ育った期間や、周囲の人物の状況から考えて、今は一五五三年。三年は歴史が前倒しされている。
(……私の介入が、織田信長という怪物の進化を促し、旧来の組織との衝突を早めてしまった)
尾張国、稲生原。
立ち込める朝霧の向こう側には、決定的な断絶が横たわっていた。 一方は、織田勘十郎信行様を総大将に戴く、千七百余の軍勢。豪華な鎧兜を身に纏い、武士の誇りを掲げる、末森城の古き織田の象徴。
対する信長様の那古野軍は、わずか七百。
倍以上の戦力差。末森陣営には、織田家随一の猛将・柴田勝家が率いる精鋭部隊が、獲物を狙う猛獣の如き殺気を放って並んでいる。
本陣の丘の上、信長様は馬上で火縄銃の火蓋を改め、静かに戦場を見下ろしていた。その瞳には、実の弟と刃を交える悲愴感など微塵もない。そこにあるのは、自らが設計した「理」が、予測通りに機能するかを確認しようとする、冷徹な設計者の眼差しであった。
「……殿。準備は整いました」
背後に控える平手政秀様が、沈痛ながらも揺るぎない声で告げる。
かつての彼は、この兄弟相食む光景に絶望して命を絶った。だが今は違う。信長様の掲げる「新しき理」が、この凄惨な内紛の先にしかないことを理解し、『最高人事責任者』として、この悲劇を組織の再編へと繋げる覚悟を決めていた。
「……政秀。勝家の動きを見ろ。奴はまだ、自らの『武勇』という名の幻想に浸っている」
信長様の短い言葉。 前方では、柴田勝家が馬を躍らせ、大音声で叫んでいた。
「那古野のうつけに教えてやれ! 戦とは、鍛え上げた武士の矜持で決するものだとな! あのような棒切れ、一気に踏み込み、へし折ってくれん! かかれッ!」
千七百の軍勢が、津波となって押し寄せる。 対する信長様の長槍隊は、微動だにしない。
農繁期にも関わらず銭で雇われ、二ヶ月間、来る日も来る日も「揃って突く」ことだけを叩き込まれた足軽たち。 彼らですら、自分たちが手にしている三間半――約六・五メートルの長槍が、どれほどの絶望を敵に与えるか、まだ知らなかった。
「……槍、揃え」
信長様の良く通る声が響いた。
瞬間、七百の槍先が水平に倒される。
三間半――約六・五メートル。
それは、戦場に突如として現れた、銀の針で構成された「移動する壁」であった。
「突っ込めッ! 間合いに入ればこっちのもの……な、なにッ!?」
突撃してきた末森軍の先鋒が、絶叫に近い声を上げた。
彼らが持っている標準的な槍は、二間半。その槍が届くよりも遥か手前、絶対的な距離の断絶をもって、那古野軍の穂先が彼らの喉元を制していた。
「突けいッ!」
信長様の号令と共に、一斉に槍が繰り出される。
勝家の精鋭たちが、どれほど華麗な身のこなしで槍を払おうとしても、密に並んだ隣の槍が、すぐさまその隙間を埋めて肉を穿つ。
個の武勇。 個の技能。
それらが、『組織化された暴力』の前に、なす術もなく解体されていく。
それは戦いというよりも、巨大な粉砕機に獲物が投げ込まれていくかのような、冷徹な光景であった。
「おのれッ! 退くな! 囲め! 囲んでしまえッ!」
信行様が輿の中で狂ったように叫ぶが、一度崩れた統制は戻らない。 そこへ、柴田勝家が自ら十文字槍を振るい、死に物狂いの突破を図った。彼だけは、長槍の穂先を幾本も叩き落とし、狂気染みた執念で信長様の馬前へと肉薄してくる。
「退けぇいッ! わしが道を作る! うつけの首、わしが直接……!」
柴田勝家が自ら先頭に立ち、槍を弾き飛ばして突破しようとしたその時だ。
信長様が、ゆっくりと右手に持った鉄の筒を持ち上げた。 火縄銃――種子島。
それはまだ、戦の主流などではない、高価で扱いにくい「新兵器」に過ぎない。
だが、信長様にとっては、これもまた、これまでの「武勇」という名の幻想を終わらせるための、最後の一押しであった。
「勝家。……時代が、変わる音を聞け」
信長様は馬上から、最短距離で突き進んでくる勝家へと狙いを定めた。
カチリ、という小さな音。 そして。
――轟音。
戦場の喧騒をすべて掻き消すような、爆鳴が響いた。 白煙が立ち上る中、勝家の兜の吹き返しが、目に見えぬ衝撃に弾け飛ぶ。 弾丸が勝家のこめかみ数寸を掠め、その後ろにいた騎馬武者の胸を正確に撃ち抜いた。
「…………っ!!」
勝家の動きが、完全に止まった。 武芸では決して届かぬ距離。 誇り高き猛将の踏み込みが届く前に、音と火薬が命を刈り取った。 その瞬間、末森軍の「心」が、目に見える形で折れた。
「……槍、揃え。前へ」
信長様の冷徹な指示。 長槍の壁が、太鼓の音に合わせて規則正しく前進を開始する。 もはやそれは軍勢ではない。逆らう者をすべて押し潰す、巨大な歯車だ。
数の上では圧倒していたはずの末森軍は、この未知の恐怖の前に、蜘蛛の子を散らすように総崩れとなった。 信行様は戦わずして敗走。 そして、戦場の中央で立ち尽くしていた柴田勝家は、名もなき足軽たちの長槍に包囲され、落馬し、泥の中に組み伏せられた。
◆◆◆
戦いが終わり、夕闇が稲生原を包み始める。 捕らえられた柴田勝家は、縄を打たれ、泥と血に塗れたまま地面に跪かされていた。 その前に、一人の老人が静かに歩み寄る。
「……柴田殿」
平手政秀様だ。勝家は顔を上げようともせず、低く唸った。
「……殺せ。わしの信じた『武』が、あのような棒切れと鉄砲の煙に敗れた。……もはや、この世にわしの居場所などない」
政秀様は、勝家の隣に静かに腰を下ろした。その所作は、敵を裁く者ではなく、旧き友を案じる父のようであった。
「柴田殿。……殿が仰った『理』を、お主も身をもって知ったはずだ。あの方は、お主の武勇を否定したのではない。……お主のような逸材を、無駄な戦い方で失いたくないと、そう仰っているのだ」
「……何だと?」
「あの長槍も、鉄砲も、すべては『家臣を死なせぬため』の道具。殿は、お主を殺すためではなく、お主と共に天下の頂を、新しい世を見るために、あえて泥を被ってあの非情な理を貫かれたのだ」
政秀様の言葉に、帰蝶から授かった「組織の合理」が、武士の言葉として織り込まれていく。 「柴田勝家。お主のその猛虎の如き武勇。……この『新しき理』に組み込まれた時、どれほどの輝きを放つか、想像してみたことはあるか。……死を急ぐな。お主の命は、もはやお主一人だけのものではない。織田という家を支える、最大の『資産』なのだ」
勝家が、大きく目を見開いた。 敗北という強烈な現実。そして、その後に差し伸べられた「自分を必要とする」という言葉。 猛将の瞳から、一筋の涙が泥の上に落ちた。
◆◆◆
私は、本陣のテントの影から、その様子をじっと見つめていた。
(……柴田勝家という最高の人材を、ただの敗残兵として廃棄せず、この組織に再雇用する。信長様が圧倒的な勝利という形で『事実』を突きつけ、政秀様が心のケアを引き受ける。この完璧な役割分担こそが、織田家を最強の軍団へと変貌させるための道だわ)
信長様が馬を引き、私の横を通り過ぎる。その瞳には、勝利の喜びなどはなかった。あるのは、すでに次の「工程」を見据えた、冷徹なまでの先見性だ。
「……帰蝶。勝家は政秀に預ける。……残るは、末森だ」
信長様は、逃げ延びた信行様が籠もり、そして――父・信秀様が病床に伏している末森城の方角を見据えた。 その視線には、一切の迷いはない。
「勘十郎は親父殿に泣きつくだろう。……ならば、俺が直接、引導を渡しに行くまで。親父殿の目の前でな」
信長様は私の言葉を待たず、馬の腹を蹴った。 私は、その逞しい背中を追いながら、歴史の歪みがもたらした「最高の舞台」を予感していた。
(本来なら三年後に起こるはずの、信行様の謀反。でも、史実よりも早く起きたことで、まだ『創業者』は生きている。信長様は分かっているんだわ。今、この勝利の熱が冷めないうちに乗り込むことが、どれほど決定的な意味を持つか)
信行様が父上に泣きつく前に、私たちが乗り込む。 信長様の新システムがいかに優れているか、その証明を抱えて、生きている信秀様から織田の経営権を正式に譲り受けさせる。それは私がプロデュースするまでもなく、彼自身の意志による、『事業承継の最終監査』への進軍だった。
私は、那古野へと馬を返す信長様の逞しい背中に、静かに頭を下げた。 歴史という名の歯車は、信長という怪物の意志によって、未知の領域へと回転し始めていた。




