黒い騎士の話
一太刀、刃を合わせることもなく、戦士の魔剣は黒騎士を切り裂いていた。
切り裂かれた黒騎士は倒れ込み、背負っていた無数の魔剣が大通りに散らばる。
戦士はそれを見下ろした。
そして何も語らず、何も抗わず、ただ倒れているその男を。
黒騎士は「お前を殺す理由がない」などと言っていたが、魔剣を見せれば目の色を変えた。
しかし伝説とまで謳われた実力など全くなく、行き場のない感情が魔剣に向いた。
そして彼は怒りとも義務ともつかない衝動に身を任せ、一本の魔剣に剣閃を振り下ろした。
――バキンッ、と。
大通りに乾いた音が響く。
何度も、何度も。
誰にも語られることのなかった小さな歴史が、声を上げることもなく砕けていく。
横たわる黒騎士の血の匂いを覆い隠すように、甘い花の香りが風に混じり、どこかへ流れていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、彼は通り道を少し外れただけだった。
街道沿いの小さな集落で、争いが起きている気配があった。
怒鳴り声と、悲鳴と、金属が打ち合わされる乾いた音。
立ち止まったのは、ただそれだけの理由だ。
集落の中央で、三人の男が一人の商人を囲んでいる。
逃げ場はない。
荷は散らばり、商人は尻もちをついたまま、声も出せずにいる。
彼は、剣に手をかけた。
抜くつもりはなかった。
ただ、いつでも動けるように。そのつもりだった。
――その瞬間だった。
「来たぞ」
誰かが、そう言った。
声は低く短く、しかし確信に満ちている。
「……来てくれたんだ」
別の声が重なる。
その言葉に含まれていたのは、安堵だった。
囲んでいた男たちが、こちらを見た。
あらゆる彼らの視線が、一斉に彼の背へと向く。
背負っていた無数の剣が、視線を集めていた。
用途も、形も、由来も違う剣が、無秩序に括りつけられている。
どれも長く使われた痕跡があり、どれも手放された理由を持っている。
彼はそれを説明する気はなかった。
説明する必要も、理由も、なかったからだ。
――だが、誰も聞かなかった。
「……黒騎士か」
誰かが呟いた。
服の色を指したのか、雰囲気を指したのかは分からない。
しかしその言葉が浸透したのは、皆に伝わった。
「強そうだ」
「大丈夫だ、もう終わる」
――終わる、と言われた。
彼はまだ何もしていない。
剣を抜いてもいない。
声も、上げていない。
――だが、終わることになっていた。少なくとも、彼らの中では。
囲んでいた男の一人が、舌打ちをして後ずさる。
もう一人が、武器を下ろした。
最後の一人は、彼を睨んだまま唾を吐き捨てる。
「……ちっ」
三人は、走り去った。
拍子抜けするほど、あっさりと。
残されたのは、震える商人と、集まってきた人々だった。
「助かった……」
「ありがとう」
「やっぱり来てくれたんだ」
彼は口を開こうとした。
しかし、口を開きかけたところで止まる。
人々は彼を囲み、剣を見上げ、顔を見て、納得したように頷いた。
こうなってしまっては、何を言っても無駄である。
「黒騎士様、ですよね?」
言葉の形こそ疑問形ではあるが、確信が滲んでいる。
その言葉を彼が否定するには、少しばかり遅かった。
否定すれば、この空気を壊すことになる。
否定すれば、救われたという感情を否定することになる。
――彼は、黙るしかなかった。
ただ、場の空気を壊さないだけの選択。
しかし彼の沈黙は、この場では受諾として扱われた。
「黒騎士が来てくれた」
「この辺りは、もう大丈夫だ」
「噂は本当だったんだな」
何の噂だというのか。
心当たりのある行為をした自覚は、彼にはない。
しかし噂の内容だけは、聞いた事があった。
――黒騎士と呼ばれる、彼が斬った男の噂だ。
その夜、集落に明かりが灯り、彼の前に食事が置かれた。
誰も理由を聞かなかった。
誰も名前を尋ねなかった。
――この場に必要なのは、役割だけだった。
彼は剣を外そうとしたが、やめた。
それを外す理由を、誰にも説明できなかったからだ。
そしてそのまま、夜が更けた。
翌朝、彼は「黒騎士」として街道を進むことになる。
まだ一度も、自分がそうだと言ったことはなかったのに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼が集落を発とうとした時だった。
「黒騎士様!」
呼び止める声は、若かった。
振り返ると、昨夜食事を運んできた娘が立っている。
その後ろには、武器を持った男たちが数人、控えていた。
「近くの林に……魔剣を持った盗賊がいます」
魔剣という言葉に、彼の背の剣がわずかに軋んだ。
そしてその言葉は、彼の心の琴線にも触る言葉だった。
「もう何人もやられていて……」
男を窺う娘は、淀みなく続ける。
涙は出ていない。怯えてもいない。
ただ伝えるのが当然で、続く言葉を知っているような口調だった。
「黒騎士様なら、きっと」
きっと。
そんな言葉で、彼女の会話は終わる。
それ以上の説明は、必要なかった。
少なくとも、彼女たちには。
「場所は、分かっています」
――彼女たちの中では、もう決まっていることだった。
彼は一瞬だけ断る理由を探したが、それは見つからなかった。
断れば、代わりに誰かが行く。
行って、死ぬかもしれない。
――それは、いつかの過去に彼が選ばなかった未来だ。
分かり切った返事をした彼は、教えられた林の中にいた。
足元はぬかるみ、空気は重い。
しかし本当に重いと感じるものは、それではなかった。
――盗賊は、一人だった。
焚き火の前で剣を膝に置き、酒を飲んでいる。
剣は異様だった。
刃は歪な形状で、持ち主と会話する様に脈打っている。
「あ……?」
盗賊も、彼に気づいた。
「なんだ、あんた」
盗賊は立ち上がり、剣を取る。
体の動きも、構える動きも速い。明らかに手練れである。
だが同時に、彼の背中を見て焦っているようでもあった。
「チッ……噂の黒いのか」
盗賊は構え、魔剣が唸る。
しかし――黒いのと呼ばれた彼は、剣を抜かなかった。
魔剣を構える盗賊を全く恐れておらず、それが余計に恐怖を煽る。
「いや待て…… ほんとに黒騎士か?」
――じりっ、と。
何も言わず、距離を詰めるように踏み出した。
踏み出した分だけ、彼と盗賊の距離が詰まる。
――盗賊の魔剣が、振り下ろされる。
どのような異能を備えていたのだろうか。
しかし盗賊の魔剣が何かを披露する事は無い。
黒いのと呼ばれた彼の動きは、盗賊の動きを上回っていたから。
彼が背中に携えた剣の一本が、意志を持つように滑り落ちた。
そして音もなく、彼の手に収まる。
――一閃。
盗賊が持つ魔剣は折れ、盗賊の体は地面に崩れ落ちる。
血は、少なかった。
盗賊は息をしていない。
しかし同時に、彼の背中が重たくなった気がした。
静寂が戻る。
彼は、剣を見た。
自分が抜いた剣ではない。
選んだ覚えもない。
ただ、そこにあった。
――そして彼の背後で、枝を踏む音がした。
「……すごい」
集落の男たちだった。
目を輝かせている。
「一瞬だったな」
「やっぱり黒騎士様だ」
誰も、盗賊の顔を見なかった。
誰も、魔剣の由来を気にしなかった。
――黒騎士様が魔剣を折った。
それだけが、彼らの記憶に事実として残ったらしい。
「もう終わりだ」
言葉通りの意味だ。
少なくとも黒騎士と呼ばれた彼は、そう言ったつもりだった。
だが男たちは、違う意味で受け取った。
「次はどこに行かれるんです?」
「他にも噂がありますよ」
「来てください、案内しますので」
どうやら、これが終わりではないらしい。
いつかの最初に、自ら宣言してしまった時のように。
もうその選択は、彼自身の意思とは、関係なくなっているにも拘らず。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――【事案:王都第三区での殺傷事件】
王都第三区にて死者一名。
武器は刃物。現場に魔剣の痕跡なし。
ただし目撃証言により、黒騎士の名が挙がる。
――【事案:北嶺街道における集団殺傷事件】
遺体は計六体。
すべて付近で活動していた盗賊団の構成員と確認。
争った形跡はなく、犯人は最小限の動作で殺害を完遂したと推測される。
単独犯による犯行の可能性が極めて高い。
――あ、あの話かい。
羊飼いの老人が、森の入り口で見つけたんだと。
喉元をスッと一本、綺麗な切り口でやられていたんだって話だ。
村の衆は『冬の風が喉を裂いたんだ』なんて震えてるよ。
まあ、ありゃ魔剣の仕業だろうさ。
――黒騎士の話?
なんだ、あんたも腕が一本しか要らない口か?
まあ……目は冷たかったな。
何にしても、挑んだのは俺からで……
正直、なんで自分が生きてるのか不思議だって話だよ。
――変な客だったね。
隅の席に座って、エールをちびちび飲んでるのさ。
背中に背負った重そうな得物は…… 相当あったな。
全部変な形をしてて…… まあ、魔剣だろうな。
店の連中も、あいつには近寄らなかったよ。当然、俺もな。
――ええ、すれ違いましたとも。
夕暮れ時、西への峠道でしたか。
背の高い男で、幾つも魔剣を背負っていました。
すれ違いざまは、恐季節外れの霜でも降ったのかと思いましたよ。
――【事案:市場における不審者拘束と騒乱】
西門市場にて「黒騎士が現れた」との通報。
現場に急行し、複数の刃物を背負った男を発見した。
男は、戦場跡で錆びた剣を拾い集めていた老いた回収屋と断定。
しかし通報した女は「あの中に魔剣が混ざっていた」と供述している。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、彼はいつものように酒場で酒を飲んでいた。
いつもと違っていたのは、彼の背後から声がかかったこと。
酒に酔っていたから、そいつが何を言っているのかイマイチ聞き取れない。
しかしその剣幕や眼光から、何かしらの敵討ちなのだろうとは理解できた。
だから彼は、一言だけを口にした。
「お前を殺す理由がない」
彼はそう言って、立ち去ろうとした。
しかし、戦士が引き抜いた一振りの輝きを見た瞬間に、彼の心の奥にある何かが軋みを上げた。
「……それを、抜いたのか」
呟かれるような彼の声に、初めて色が混じった。
戦士が手にしているのは、かつて彼が抜いたのと全く同じ形の魔剣だった。
「この魔剣を賭ける。勝負だ」
彼は、魔剣を抜かなかった。
そして、彼以外の皆は知っている。
それが黒騎士の、無形の構えなのだと。
――そして、いつかに訪れたその日がやって来る。
優秀な戦士の剣が、黒騎士と呼ばれた男の胸元を捉えた。
伝説とまで謳われた男の防御は、あまりに脆く。
いや。あるいは戦士にだけは、彼が最初から、この刃を待っていたよう見えた。
剣閃が走り、黒騎士の身体が宙を舞う。
同時に辺りに満ちたのは、むせ返るような「花の香り」だった。
夥しい血が流れているはずだ。
なのに戦士の鼻腔を突くのは、故郷に咲き乱れていた花のような、懐かしさすら感じる甘い香り。
「……ああ」
黒騎士の掠れた声が漏れた。
それは、呪詛ではない。
重荷を降ろした者が漏らすような、深い溜息のような意味のない言葉だった。
大通りに散らばる無数の魔剣の一本一本が、月明かりを浴びて怪しく輝いている。
戦士は、取り憑かれたようにそれらを拾い上げ、叩き折った。
一本、また一本と。
乾いた破壊音が響く横で、黒騎士と呼ばれた男の死体が冷たくなっていく。
魔剣を失った彼のことを気にする者は、誰も居ない。
そして、戦士の背中が少し落ちた。
魔剣を砕くたびに、己の背中に誰にも見えない何かが積み重なっていくように。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その町の無縁墓地には、何時からか戦士の墓場がある。
戦士が眠る墓には、無数の魔剣が墓標のように立てられている。
その周りには、甘い香りのする花が咲いている。
魔剣は誰でも自由に持ち出す事ができ、しかし魔剣は黒騎士と共に帰ってくるそうだ。




