第一の朗読/クロヴィスの物語:結
発表会当日。日も昇らないうちに、あなたはこっそりと宿舎を抜け出して、礼拝堂に向かわれました。
手にしたのは、侯爵家から預けられた宝石。
〈砕石の魔法〉――
石を『すり抜け状態』に変える、
秘術をこめた魔道具です。
あなたはこれまでの何気ない会話の中から、オルタンシア様の日課を知っていました。
女子生徒の一部は、ほかの生徒よりも早く起きて礼拝堂に向かい、朝の準備の手伝いをする決まりです。
オルタンシア様はその役を担っておられました。
礼拝で使う装飾品などは二階の倉庫にしまわれており、当番の生徒は毎朝それを取りに行かれます。
階段は、すべて石造りです。
さらにもう一つ。
礼拝堂には、ふだんは使われていない地下貯蔵庫がありました。
入口は固く閉ざされ、司祭以外は誰も入れません。
しかし壁も床も天井も石で作られている。
つまり――クロヴィス様、あなただけは〈砕石の魔法〉を使って自由に出入りできる場所でした。
企みは、単純なものでした。
階段の踊り場に差しかかったオルタンシア様の足元、その石床から地下倉庫までの直線を『すり抜け状態』にしてしまう。
要は、魔法の落とし穴。
彼女をまっすぐ倉庫へと落とすためです。
念のために、落下地点には毛布を敷いていました。
傷つけるつもりはなかったのです。
一日だけ。
ほんの一日だけでいい。
――オルタンシアを地下に閉じ込め、発表会に出られなくすれば――
ええ、陛下。ご指摘はもっともでございます。
もし子爵令嬢がふっと姿を消せば、学院は大騒ぎ。発表会どころではなくなります。
当然の理屈です。
けれども、夜通し泣き明かし、意識ももうろうとしていたクロヴィス様には、そこまで考える力は残っておりませんでした。
ただただ目前の恐怖から逃れたい。
ただ、ただ、自分の失敗を隠したい。
その一心で動いてしまったのです。
……ご質問ですか。
はい。おっしゃる通りです、陛下。
いくら魔法を使えるとはいえ、礼拝堂は侍女や修道士が行き来する場所。
クロヴィス様が一階や二階で人目を避けながら仕掛けをするなど、不可能。
だからこそ、彼は地下倉庫に身をひそめたのです。
オルタンシア様は毎日同じ時刻に、規則正しく二階へ向かわれる。
踊り場に足をかける、その瞬間を見計らい、下から魔法で石床を『すり抜け状態』に変える。
それだけで十分だと考えたのです。
あら、そうではないと?
なるほど。「毛布」という言葉に違和感を持たれたのですね。
果たして、そんなもので本当に足りるのか、と。
さすが陛下。
ご明察でございます。
ええ。
足りなかったのですよ。
クロヴィス様は、落下地点のそばで待っていたに違いありません。
暗い地下でランタンを掲げ、オルタンシア様が落ちてくる瞬間を、見届けようとしていた。
だって、もしケガをさせてしまったら、助けなくてはならない。
そんな浅はかな思いやりが、心のスミに残っていたのでしょう。
想像力が欠けているとしか言いようがありません。
――ボキッ。
落ちてこられたオルタンシア様は、クロヴィス様の目の前で、いやな音を立てられました。
血は流れませんでした。
ランタンの灯がゆらめき、床に横たわる彼女の姿を赤銅色に染め上げておりました。
耳を澄ましても、声はなく。
胸に手を当てても、鼓動はなく。
何度も、必死に肩を揺さぶりました。
やがてクロヴィス様は、己の手を見つめました。
膝を折り、床に両手をつきました。
息が乱れ、涙声がのどをつぶす。
「違う」「待って」とつぶやき続け、やがてただの泣き声になっていく。
けれども、どれだけ叫ぼうと、どれだけ体を揺すろうと――
ぐったりと横たわる少女は、もう二度と動きませんでした。
陛下、ご想像くださいませ。
このお方の胸を占めていたのは、果たして痛みでしょうか、悲しみでしょうか。
いいえ。
――怒られる。
どうすれば隠せるのかという、算段です。
では、何を思い浮かべるか?
考えるまでもございませんね。
❖――♔――❖
クロヴィス様。あなたは、毛布にくるんだオルタンシア様のお体をかつぎ、地下通路から石壁をすり抜けて礼拝堂の外へ出ました。
まだ夜が明けたばかりの王都。通りは静まり返り、人影はほとんどありません。
息を切らしながらあの石橋へ。誰にも見つからないように。いいえ、最悪、ことが済んだなら憲兵に捕まってもかまわない。
錯乱に近い心持ちで足を運んだのでございます。
もしかすると、毛布の隙間から黒髪がはみ出し、腕にまとわりついたかもしれませんね。
鼻先をかすめたのは、酢の匂いでしょうか。死後間もない身体からただよう、汗や香油とまじり合った生々しい残り香です。
耳をすませば、袋の中で衣がずれる音や、関節がこきりと鳴る小さな響きさえしたかも……。
ああ、なんておぞましい。うろたえたことでしょう。怖かったことでしょう。早く、早く消し去ってしまいたかったに違いありません。
石橋にたどり着いたあなたは、膝をがくがくと震わせ、ぎょろぎょろと首を振り回して辺りをうかがいながら、乱暴に毛布をおろしました。
ねえ、おうかがいしてもよろしいかしら。
あなたはかつて、橋脚の中に『しゃがめば人ひとり入れるくらいの空白』があると気づきましたね。
そこに、これまで恋文やら詩やら、みだらな絵やらを捨ててきた。
この上、オルタンシア様のお体まで放り込むおつもりだった。
橋を壊してしまう不安はなかったのでしょうか?
あはははは。おかしい。おもしろいお顔をされましたわねえ。
言い訳をなさりたそうな表情で。
あとでじっくり聞かせていただきましょう。
けれど今は、この朗読劇を続けますね。
ほら、ご覧あそばせ。
陛下が身を乗り出しておられる。
ここは物語の山場。妨げるほど命知らずではないでしょう?
あなたは小さく小さくオルタンシア様のお体を折りたたみ、橋上から『空白』めがけて落とした。
このときどんな心境だったのか、私にも想像するほかございません。
祈るような気持ちだったのか。
それとも、ただただ安堵だったのか。
いずれにせよ、結果として石橋は壊れませんでした。
歓喜に包まれたことでしょう。
当時、近隣の住人が「何者かが吠えるような声を聞いた」と証言を残しています。
何を叫んだのかまでは分かりませんが。
もちろん、これは推理にすぎません。
ですが――あなたはあのとき心に決めたのではありませんか。
もう、この『ゴミ捨て場』は使わない、と。
これ以上何かを入れて橋を壊してしまえば、すべてが終わってしまうから。
事実、橋脚の『空白』は水底に沈んだまま、今も変わらず残り続けている。
あなたは何食わぬ顔で、自分の寄宿舎に戻りました。朝の礼拝時間に間に合うように。
こうして。オルタンシア子爵令嬢は、行方不明となったのです。




