末路
クロヴィスの鼻の奥には、奇妙なにおいがこびりついていた。嗅いだわけでもないのに、オルタンシアの亡骸がまぶたの裏に焼きついている。よどんだ運河の水、腐り落ちた肉、むせかえる酸のにおいが脳をかき乱す。頭を振っても、叫んでも消えなかった。
深夜の廊下。光は乏しく、闇が支配する宮殿を、彼はさまよう。
「誰だ!」
鋭い声が飛ぶ。ランタンを掲げた巡回兵が、暗がりの中で立ち止まっていた。
捕まれば、またあの寝室に引き戻される。クロヴィスは反射的に駆け出した。
階段を駆け上がろうとした瞬間――
石造りの段が足をすり抜け、身体の支えを失った。
「あ、あ……!」
床に叩きつけられた衝撃で肺が縮み、叫ぶこともできないまま転がり落ちる。さらに先の壁を抜け、またその下へ。
脳裏をよぎったのは、かつて自分の前に落下してきたオルタンシアの姿だった。
だが、違う。
大宮殿の壁や床をまっすぐ落ちるのではない。
壁の内部に、人のために作られたかのような斜面が現れ、彼を導いていた。
どこまでも転がされ、上も下も分からず視界がぐるぐる回る。
次の瞬間、全身を激痛が襲った。
斜面は平らではなかった。ノコギリの歯のような突起、イバラの針、刃のような切れ込みがみっちりと刻まれていた。衣服は裂け、皮膚は切り刻まれ、骨が内側から嫌な音を立てた。
――痛い怖いやめて切れる折れる砕ける苦しい、
――死。
が、死は訪れなかった。
やがて、べしゃりと鈍い音を立てて、広い空間へと吐き出される。
冷たい石床のひんやりした感触。
湿った下水のにおいが漂う場所だった。
骨は折れ、腕も足も使い物にならない。
クロヴィスは叫び、わめき、のたうちまわりながら、暗がりに揺れるロウソクの光を見上げた。
その先に、二つの影が立っていた。
一人は、藍色の法服をまとった巨漢――
ざんばらの灰の髪、ぎらつく赤い瞳、口角からあふれる巨牙。
特命捜査官、ヴィルフリート・デュラランド。
歳月を経て、その体躯は記憶の中よりもさらに大きく、鬼のごとき影を石壁いっぱいに広げていた。
そして、もう一人。
黒い外套をまとう若い騎士が、デュラランドの横に立ち、片眼鏡を装着していた。
「名探偵。何もかも、おめェさんの推理通りだ。残念だよ」
「ええ。彼は自分の過去から逃げた。だから、ここに落ちてきた。仕事を済ませましょう」
デュラランドの分厚い手が、容赦なくクロヴィスの胸ぐらをつかんだ。
「卒業以来だなァ、クロヴィス」
一気に持ち上げられ、足が床から離れる。骨がきしむ。
荒い息がかかるほどの距離で、ヴィルフリートの眼光が突き刺さる。
「今のお前には殴る価値もねェ……いいや、とっくになかったんだな。手遅れだったんだ、おれたちは」
クロヴィスは必死に叫ぶ。
「ち、違う! 誤解だ! ぼくは悪くない! 父上に会わせてくれ!」
「あなたにお父上など、もういませんよ」
返事をしたのは、隣の騎士だった。
「ロートレック侯爵から、あなたを廃嫡する書面をいただきました。もう家には帰れない」
血の気が引いた。貴族としての地位も、ロートレック家の一員たる資格も、何もかも剥奪し、平民同然の身分に落とすという宣告。
「いやだ……いやだ、いやだ……」
「罪状は明白です。貴族令嬢の殺害と死体遺棄。結論は死刑しかありません。論点はただひとつ、どのように死んでいただくかだけ。この国にはいろいろと残酷な処刑法がありますからね。少しでもまともな最期になるよう、せいぜい裁判で抗ってみることです」
唐突に思い出されたのは、大人になってから出会ってきた面々だ。水門に携わった職人たち、交渉に関わった文官たち。彼らと一緒に成果を喜びあった日々。やがて巡り合った、尊敬の目で見つめてくれた恋人。
「や、やだ、やだ……! ぼくはまだ……! 父上、アレット、あぁ、ああ……!」
「台無しにしたのはあなたです。あなたの五年間はすべて無駄だった」
騎士が顔を近づける。
漆黒の瞳が、冷ややかに光る。
「宮殿前で待機していた御者にも、事情を説明し、お引き取りいただきました。伝言を預かっています」
片眼鏡が反射し、ぐちゃぐちゃになったクロヴィスの無様を映す。
「――あなたが公開処刑になることを願う。最前列から石を投げてやる、とのことです」
地獄の底のさらに底、決して戻れない闇の中、がちがちと歯を鳴らしても、いくらもがいても、ぐずぐずと鼻をならしても、胸ぐらを握る怪人族の手はびくとも緩まない。
絶望と後悔と恐怖がないまぜになったまま、ひきずられていく男。漏れ出たのは、情けない慟哭だけだった。