破滅
「ウソだ。父上がぼくを」
クロヴィスのうめきに、『就寝の儀』の常連たちは誰ひとり取り合わなかった。誰も疑っていないようだった。ルミエール公爵家嫡子にして寝物語朗読係、アルアリエルの悪趣味な朗読劇を、全員がいつものことと受け取っていた。
――「仕方ない」。
『就寝の儀』に向かう前、父、ロートレック侯爵が口にした言葉だった。
クロヴィスは不意に悟る。こうして断罪されるのは、自分が初めてのことではないと。アルアリエルにとっては手慣れたことにすぎず、番狂わせなど起こらないのだと。
――見捨てられたのか、ぼくは。
「侯爵からはていねいにお話をうかがいました。あなたのことも、いろいろとね。事件のとき、うすうす気づいておられたのかもしれません。二年前、妹君に婿入りがありましたでしょう? あなたの代わりは用意されていたのです」
――違う。何の証拠があるのか。
問いただすことすらできなかった。
口にするのが恐ろしかった。
まだ提示されてはいない。だが。
「図面も拝見しました。橋脚の『空白』、私の騎士の推理は当たっていました。今日、あなた、あの石橋を通りがかったでしょう? その直後――」
ここにきて証拠がないなど、あるわけがない。
「バラバラに解体させていただきました。私には少々、魔法の心得がありますから。デュラランド様にもご同行いただき記録を取っております。あなたがあの『空白』に入れたもの、すべてね」
クロヴィスは崩れ落ちた。
一方でブランシュ女王が眉を寄せた。
「おい、さらっと何をとんでもないことを言っている。王都のすべては私のものだぞ」
「申し訳ありません。用が済んだら元に戻しましたから。往来を数時間止めましたので、寝物語朗読係宛てに損害賠償の請求は来るでしょうけど」
「要するに王宮の経費だろうが。お前というやつは……」
「あら、ケチくさい。貴族なんて、お金を湯水のように使うのが役目でしょう?」
涼しい顔のアルアリエルに向けて、女王のため息が低く響いた。
「どうしてだ……なんで、いまさらになって」
クロヴィスからうめき声がもれた。
「デュラランド。どうかしてる……! 学生時代に知り合った女というだけじゃないか! 自分の将来を犠牲にしてまで……!」
「あの方がどの道を選ぼうと、勝手でしょう」
「今になって、今さら何なんだよ!」
クロヴィスの目から水滴が散った。
「あの日から、ぼくは、ぼくなりにがんばってきたんだ! 父の言うなりだったのは認めるさ。でも水門工事だってやり遂げた! 婚約だって!」
荒い息のまま訴える彼を、アルアリエルは黙って見つめた。何かを考えるように視線を泳がせた。
「……そうですわね」
やがて、にこりと微笑んだ。
「『お父様に叱られる』という場面なら、あなたは確かにがんばれた。お父上もそれを理解し、割り切っておられた。それに、いざ社会に出てみれば、あなたは結構うまくやれた。なまけグセは、よく言えば効率主義。他力本願は、よく言えば人使いがうまい。あなたの力は、大人になったからこそ、花開くものだったかも」
「ぼくは知らなかったんだ!」
叫びは泣き声に近かった。
「学院じゃ、何をやってもダメで、好きな子にもふり向いてもらえなかった。劣等感だらけで、めちゃくちゃで……でも、昔のことだ。バカみたいだ。いま思えば、なんであんなに苦しんでいたのか、ぼくだって分からないんだ!」
「何もかも、学院を出たらあっさり解決したわけですか。結構なご活躍ぶりだったと聞いております」
アルアリエルは軽く言葉を継いだ。
「まあ、若者たちの狭い世界でのできごとですもの。初恋の失敗なんて、いっときの過ちにすぎません」
「そのとおりだ……。オルタンシアなんてすっかり忘れてたんだ」
「この人しか考えられない。そう燃え上がった気持ちも、年月が経てば泡みたいに消えるものです」
「……わかってくれるのか。どうかしてたんだ。あんな狭い寄宿舎が、世界のすべてみたいに見えてた」
「わかりますわ。昔は浅はかだった。それに気づくのが、大人になるってことなのかもしれませんわね」
「ああ、そうだ、そうだよ! もう大人になったのに、あんな昔のことなんて……!」
「――――ふざけるな、クソ野郎」
寝室の空気が凍りついた。
重い沈黙が、クロヴィスを押しつぶす。
彼は気づいた。
アルアリエルは彼に寄り添ったのではない。
ましてや同情などしていない。
醜悪な本音を引きずり出したかっただけなのだ。
「お前は何も分かっていない。何も、消えてなんかいないのよ」
アルアリエルが静かに手をかざすと、ぞるりと黒煙が手のひらから噴き上がった。
渦を巻きながらふくらみ、やがて一枚の絵画ほどの大きさを持つ鏡が立ち現れる。
飾り気のない無骨な枠。鈍い光を放つ鏡面に映ったのは、クロヴィス自身の姿であった。
「……っ」
彼はとっさに目をそらした。だがアルアリエルは逃がさない。
「見なさい。クロヴィス・ロートレック。見ろ。お前には見る義務がある」
《写し取りの鏡》――
魔法じかけの記録具が、鈍い光をまたたかせた。鏡面に映っていたクロヴィスの姿が揺らぎ、やがて別の光景がにじみ出る。
彼にはすぐに分かった。橋脚を壊したアルアリエルが、見つけたものをただ黙ってしまい込むはずがない。
今からつきつけられる、鏡に取り込まれた映像。これこそ、五年前のあやまちを裏づける、致命的な証拠なのだと。
彼女の時は止まっていた。
大人になることはできなかった。
故郷に帰ることもできなかった。
鏡に映し出されたのは、
『十七歳から五年後』のオルタンシアだった。
冷たく狭い空間に閉じ込められていた少女の残骸。
青みがかった黒髪は、かつてのまま。
しかし大粒の瞳は失われ、ただの黒い穴が空いていた。
黒ずんだ毛布がはがれ、衣服は縮れて破けて、肉体のあちこちがむきだしで、皮膚は色を失っていた。
さらに、胸にはぼろぼろの布切れと、茶褐色の紙片がへばりついていた。
――あれは。
クロヴィスの背骨が、
脳が、目が、
ぐちゃりとイヤな音を立てた。
――あの汚れきった紙きれは、ぼくが贈ろうとしていた、かつての。
絶叫が、響き渡った。
クロヴィスの首飾りが鋭く光った。
〈砕石の魔法〉を秘めた宝石を、彼はいまだ手放していなかった。
立ち上がった彼は駆け出す。
女官長の脇をすり抜ける。
石壁へと身を投じる。
布製の壁掛けが裂ける。
肉体は石をすり抜ける。
壁の向こうへ。
――許して。違うんだ。ぼくは。
目をつぶっても目を開いても、涙にまみれた視界は、まともな像を結ばなかった。
❖――♔――❖
場が静まり返る。
女官長は取り乱すこともなく、落ち着いた声で「逃げてしまいましたね」と言った。
寝台の上、ブランシュ女王は足を組み直し、鼻を鳴らした。
「で、アルアリエル。何をたくらんでいる?」
「バレバレですか。わざと逃がしたと」アルアリエルは悪戯っぽく笑った。
「大義名分を得るために、いじましい抵抗をさせてから、踏み潰す。お前の常套手段だ。まったくどうしてこんなヤツになったのやら」
「あなたの教育のたまものですわ、女王陛下。かつては娘のように可愛がっていただきましたもの」
「知らぬな」と言い、ブランシュは軽いあくびとともに、寝台に横になった。「まあ、今日はおおむね満足した。続きは明日にするか」
「ええ、ご期待くださいませ」
アルアリエルはすっと手を天井へ伸ばした。
人さし指には白銀の指輪があり、大きな宝石が燭台の炎を受けて七色の光を放つ。
「私は〈悪逆〉の名を冠する魔法使い。他人の魔法は、ひと目見ればたいてい真似できますの。あれに手本というものを見せてあげます」
「殺すなよ。裁きは受けさせる」
「ご安心を。どこかのヘタクソとは違います」
女王に向かって、笑んだ。
「陛下、ご存じですか? 地獄の底には鬼が棲むと言われていますのよ」
ぱちん、と指が鳴った。
空気がびりびりと震え、部屋全体が波のようにゆがみ始める。