人生最高の一日
「若様、小説なんて久しぶりじゃありませんか」
黒塗りの馬車を走らせながら、御者が声をかけてきた。
上級貴族の跡取り息子、クロヴィス・ロートレックは、照れくさそうに読んでいた本を閉じた。
「若様って呼ばれるの、慣れないなぁ。もう坊っちゃんとは言わないの?」
「イヤがってたじゃありませんか」
「なくなると寂しいもんだ」
「呼びませんよ。若様は立派になられたんですから」
――お前にそう言ってもらえるとはな。
クロヴィスは窓に映った自分の姿を見て、赤い前髪を少し直した。
「本好きの若様のことだ。いい話なんでしょう?」と御者。
「ああ、面白いよ。アレットに教えてもらったんだ」
「……へえ、なるほど。へへへ。わかります」
「なんだよ、からかってるつもり?」
「いいじゃないですか。ご婚約されるんですよね。どんな本なんです?」
御者に聞かれ、彼は本の表紙に目を落とした。
「『人魚の姫の物語』だ。人間の王子に恋した海底の姫が、魔法を使って王子に会いに行く。けど、すれ違いのすえに王子は別の女を選んでしまう。絶望した姫は、泡となって海に消えてしまう……」
「うへえ。悲劇ってやつですか。かわいそうな話ですね。ンなの、何がいいんですかねえ」
「悲しいからいいんだろ。気持ちがすれ違って恋がうまくいかないなんて、誰にでもあることだから」
ピンとこない様子の御者をよそに、クロヴィスは窓の外へ視線を移した。
夕暮れの貴族街の向こうに、細長い塔がそびえている。かつて彼が通っていた王都貴族学院だ。
――すれ違い、か。
学院を卒業してから四年ほどになる。クロヴィスは社会に出て以来、責任の重さに押しつぶされそうになりながら、目まぐるしい日々を過ごしてきた。
もう二十二歳。積み重ねた努力と、成し遂げてきた成果の数々は、少年を大人の男に変えていた。
社交界で評判の美しい伯爵令嬢を射止めるほどに。
――ちょうど、このあたり。
馬車が石橋にさしかかったとき、ふと、学生時代に終わった恋の記憶がよみがえった。
忘れたはずの胸の痛みが、まだ残っていた。
――あんなこともあったっけな。
「お前たちにも心配をかけたよ」
「気にしちゃいけません」
御者の声には苦笑が混じっていた。
「若様、子どもの頃なんて何してもうまくいかないもんです。みんな一時の勢いで、もがいたり、のたうちまわったりするンですよ」
「のたうちまわってたよ。まるっきりバカだった」
「過ぎたことです。大事なのはこれからですよ……ご覧ください、この頑丈な石橋。あなたのお父上、侯爵閣下が若き頃に手がけられたものです」
運河にかかる大きな灰色の石橋は、馬車二台が余裕をもってすれ違えるほどの幅がある。王都の流通を支える重要な橋だ。水面からは四本の分厚い橋脚が立ち上がっていた。一本だけでクロヴィスの馬車よりも大きい。
「若様。私、あなた様がいつかこんな橋を造ってくださるのを、楽しみにしてるんですよ。『あの小さな坊っちゃんが、俺たちの暮らしを永久に支える橋を造ったんだ!』と、街じゅうに自慢できるようなヤツです」
「ぼくが造るわけじゃないけどね。職人のみんなのおかげだよ。ぼくは計画を立てて、うまくいくようお願いするだけ。思い上がるつもりはないよ」
御者は涙ぐんで「さすがです若様」と答えた。
「あなたはやはり、王都の未来を担うお方だ。お父上のあとを継ぎ、いくつもの工事を成功に導いた。本物の貴族。だからこそ、女王陛下もお認めになったのですよ」
やがて馬車は王都中心街の最奥にある王宮へと到着した。
白と青に彩られた巨大宮殿。塔も回廊も果てしなく連なり、街を丸ごと飲み込むほどの大きさだ。
「若様。私ぁ誇らしいんですよ。あなた様が『今夜の主役』に選ばれるなんて」
御者は馬車を止め、彼を見送った。ぐしぐしと服のそでで涙を拭きそうな勢いだ。
大げさだと思いながらも、クロヴィスの胸もまた高鳴っていた。
この王国には、夜ごと行われる儀式がある。
夜十一時の、就寝の儀。
寝室に入った女王が、ごくわずかなお気に入りを集め、私的な歓談の場を設けるものだ。
そこにただ一人、特別に指名されて加わる者がいる。
『今夜の主役』。
女王自ら功績ある忠臣を選び、一夜に限り、寝室に招く制度。身分は問われない。時として若手や平民が呼ばれることもある。むろん、選ばれた者は、翌朝から注目の的だ。
今朝、ロートレック家に封書が届いた。クロヴィスが選ばれたという、王室からの報せだった。
まさかのできごとに、彼はしばし呆然とした。
なんと光栄なことなのか。女王陛下が自分を認めてくださった。自分が輝かしい出世街道にいることの、何よりの証明に他ならない。すべてを投げ打ってでも馳せ参じるべき任である。
父は苦い顔をして「仕方ない」とだけ言った。
本来なら今夜、恋人に指輪を贈り、結婚を申し込むはずだったのだ。
だが、この知らせの前では予定を改めざるを得ない。
彼女も理解してくれるだろう。明日でも明後日でも、いかようにも日を改めればいいのだから。
「お時間です、ロートレック様」
大宮殿の控室でそわそわしているうちに、あっという間に午後十一時になった。
上品な衣服をまとった女官が現れ、寝室へと進むよう促してきた。
広い廊下を進むと、やがて数人の男女が大扉の向こうへと消えていくのが見えた。
――女王の側近たちだ。
クロヴィスも続いた。
――ここが、女王の寝室。
「ようこそ、クロヴィス・ロートレック」
黄金の扉を抜けると、まず目に入ったのは女王ブランシュ・エルディリオンだった。
寝台に腰かけ、黄金色の髪を肩に流し、白い脚を組み替えながらこちらを見すえている。
半透明の寝間着が、長身の無防備な肢体を浮かび上がらせていた。
「は、は、はい」
クロヴィスは声を裏返らせた。幼くして即位し三十年余、齢四十に至りながら、女王の美しさには一点の陰りもない。
「そう畏まらずともよい。今夜はそなたが主役だ」
女王は寝台に両手をつき、ゆるりと背を伸ばす。
視線は冷たく、同時に愉しげでもあった。
「評判は聞いている。人を動かすのが、うまいと。なるほど。わかる気がする」
言葉に、胸が熱くなった。
あらゆる苦労が、報われたと思った。
もっと詳しく、聞きたいと願った。
なぜ、自分が選ばれたのか。
自分のどこを認めていただいたのか。
「陛下。なぜ、わたしをここへ?」
高揚のあまり声が上ずる。
「一ヶ月前の都市計画書をご覧になったのですか? それとも、先週の水門の完成を……」
――あるいは、男として呼ばれたのか。
彼は自分の顔立ちに、少しばかりの自惚れがあった。
女王の胸元に視線が落ち、あわてて顔を上げた。
「ふむ。なぜ、か」
女王は指を唇にそえ、控えめに笑った。
「すまないな。新しい水門が、そなたの指揮によるものとは知らなかった。なかなかよくできていて気に入っていたが……惜しいな」
「惜しい?」
「私は悲しいよ。お前のような秀才が、ここで終わってしまうとは」
沈黙。
クロヴィスは、強い違和感を覚えた。
「陛下、いったい、何を……」
気づいたのだ。
女王の笑みには、嫌味がある。
――何かがおかしい。
身じろぎし、一歩退く。
かつん。
硬質な靴音が、寝室に響いた。
「ごきげんよう、今夜の主役様」
背後から声。
クロヴィスは振り返り、目を疑った。
「……あなたは」と、言葉が漏れた。
純白の髪を肩口で短く切りそろえ、毒々しい黒と赤の衣装をまとった、若い女が立っていた。
細い身体を黒革のコルセットがきつく締め上げる一方、胸元はばっくりと豊かさを誇示している。
つつしみのかけらもない異常極まるいでたち。
場末の踊り子でもまぎれ込んだのか、と、言葉がのどまで出かかった。
女王が口元をゆがめ、にたりと笑う。
「くくく……ほら、望みどおり『主役』を連れてきてやったぞ。寝物語朗読係よ」
声には喜悦が満ちていた。
こらえていた笑いを、ついに吹き出すかのように。
「さあ、アルアリエル。どんな話をしてくれる? 私を失望させるなよ」
女の名を耳にした瞬間、クロヴィスは凍りついた。
アルアリエル・ド・ラ・ルミエール。
国内有数の名門、ルミエール公爵家の令嬢。
齢二十に満たずして女王の側近を務める才媛。
権威を盾にやりたい放題の、悪名高き女。
誰もが『悪役令嬢』と呼ぶ嫌われ者。
恐怖感すら覚えるほどの美貌が、クロヴィスをまっすぐに見すえていた。
「お初にお目にかかります。クロヴィス様」
女は優雅に一礼した。衣装のすそに散りばめられた無数の布飾りと宝石が、光をばらまく。
「私は女王直参の一人、寝物語朗読係。激務でお疲れの女王陛下のため、日常をしばし忘れられる、愉快な物語を夜ごとお聞かせすることを役割としております」
ひらりと細腕をかざし、彼を指差した。
「クロヴィス様。あなたをここにお招きしたのは私です。今夜の主役にあなたを選ぶよう、陛下に陳情いたしましたの。――寝物語を盛り上げていただくためにね」
「……は……え……!?」
クロヴィスの全身がこわばった。
「さあ、陛下! 始めましょう! 今宵お聞かせするのは、あなた様の大好物、愚か者が破滅する物語!」
悪役令嬢の瞳が、大きな円を描いた。
もろ手を掲げ、女王に言い放った。
「主役の名はクロヴィス・ロートレック! 五年前、この者はある『許されざる罪』を犯したのです! さて、いったい何をしでかしてしまったのでしょうか!? これより一つひとつ明らかにしていき――最後には、ざまあみろと笑われて終わる、残酷な末路をお目にかけますわ!」
――ありえない。
クロヴィスの視界が、ゆがんだ。
表情に、せり上がった。
内心に渦巻く動揺、不快感、そして――
恐怖が。
なぜなら。
彼には、心当たりがあったのだ。
――まさか、あのことを。
違う、ダメだ。
こんなこと、ダメだ。
忘れていたのに。
いや、忘れたことにしてきたのに。
あの橋の下。
あの忌まわしいできごと。
「お覚悟なさいませ。クロヴィス様」
ダメだ。お願いだ。やめてくれ。
「あなたの物語を、台無しにしてあげる」
こんな場所で――
あんなものを暴かれてしまっては――!