応援
夕方、その男子中学生は橋の上からぼんやりと川を眺めていた。澄んだ色をしており、川底に大きな石が見える。
橋の上からは距離があるが、見つめていると引き込まれそうになる。彼は手で顔を覆い、ため息をついた。
そこに、近づく影があった。
「はあ……」
「やあ、こんにちは」
「えっ……こんにちは」
振り返ると、中年の男が立っていた。だらしのない体型と適当な服装で、妙に親しげな笑みを浮かべている。だが、その顔に見覚えはない。どことなく怪しい雰囲気をまとっている。そういえば、不審者情報で似たような特徴を見た気がする。
男はそんな彼の警戒心に気づいたのか、笑顔を崩さず言った。
「ああ、わからないかな? ほら、隣の家のおじさんだよ。道路を挟んで右隣のね」
「あ、はい……どうも……」
「うん、それで、どうしたの? 浮かない顔してるけど、何か悩みでも?」
「ん、まあ、ちょっと……」
「んー、確か君、中学生だよね? そりゃ、悩むこともあるよねえ。あれかな、恋の悩みかな?」
「ははは……」
「違う? じゃあ、友人関係かな。それとも……サッカーのこと?」
「まあ……」
「おお! 当たりか! ははは! いやあ、そんな気がしていたんだよお!」
男はやけに嬉しそうに手を叩き、仰け反って笑った。
「なになに? おじさんに話してごらんよ」
「いや、大丈夫です……」
「うん、おじさんはこう見えてもね、サッカーがちょっと好きだったんだよ」
「いや、『昔やってた』とかじゃないんですか……」
「ああ、やってないやってない! ははは! オフサイドって何? って感じだもん! ははは! たまにテレビで見ても、コート広すぎだろ! とか思ったりしてね。はははははは!」
「ははは……あの、気にかけてくれてありがとうございます。でも、大丈夫なんで……」
「そうか……それで、サッカーのどんな悩みなの?」
「いや、あの、大丈夫なんで……」
「いやあ、おじさんはね、君にはプロになってほしいんだよ。だから相談に乗るよ」
「あの、本当に大丈夫ですから……」
「それは、悩みがもう解決したってことかな?」
「いや、ええぇ、わかんないかな……話したくないって言ってるんですよ」
「でも君、小学生の頃からずっとサッカーを頑張ってきたじゃないか。もしやめるつもりなら、もったいないよ」
「だから……はあ、赤の他人でしょう? 僕のことはほっておいてくださいよ」
「そうか……」
「……すみません、言い過ぎました。でも、そういうことなんで」
「でも、話せば気持ちが楽になるかもしれないよ」
「いや、しつこいなあ……。なんなんですか、本当に」
「おじさんはね、絶対に君にプロになってほしいんだよ。それが実現するなら、なんでもするよ」
「怖い、怖いですよ、その圧が。どうしてですか? 僕がプロになったら自慢でもするんですか? 近所の男の子がプロになったんだよって。くだらない……」
彼そう言って川に視線を戻した。一点を見つめ、大きくため息をつく。
「君がプロになってくれないとさ……」
「はあ、まだ言うんですか……」
「君がプロにならないと、毎朝家の壁にボールを当てられるのを我慢してた意味がなくなるからだよお!」
「え……」
「何年も毎日のように壁にぶつけてきやがってよおぉぉ! おっ、今日は練習しないのか……と思ったらバンバン、バンバン、バンバンンン! 雨の日もレインコート着てやってたよな? 『雨の日なのに頑張ってるねー』って言ったら、『練習しないと感覚が鈍るんで』って返してきたよな! 皮肉だよ! 気づけよ! あのときの顔、今でも思い出すと腹が立つ! あああぁぁぁ!」
「あ、あの……」
「途中でバスケに切り替えたときは度肝抜かれたわ! それもドリブルでバンバンバン、サッカーと同じで毎朝六時から始めやがってよおぉぉ! でも結局サッカーに戻ってよぉ! たまに五時半から始めやがってああああああ!」
「あ、あの! すみませんでした……」
その圧に負けて、彼は思わず頭を下げた。
「もうサッカーはやりませんから……あっ、バスケも……もう全部終わりなんで……今までご迷惑をおかけしました……」
彼はそう言って、もう一度頭を下げた。すると、男は肩を落とし、大きくため息をついた。
「……だから、それじゃ困るんだよ」
「え?」
「ただやめただけじゃ、これまでの迷惑が帳消しにならないんだよ。君がプロになって、ようやくおじさんが我慢してきたことに意味が出てくるんだ」
「いや、でも実はこの前、レギュラーから外されて、それで……」
「そんなことかい! 逆にびっくりしたわ! 怪我や病気なら天罰だって喜べたのによ!」
「どういう感情なんですか……」
「悲劇の主人公ぶってるだけで、どうせまたすぐにやる気を取り戻して、早朝練習を再開するんだろ? あの、うるせえのをよお!」
「いや、結局やめてほしいんじゃないですか……」
「いいや、プロになってほしい」
「どうしてですか。やめたほうがいいんでしょ?」
「君がプロになったら、これまでの被害を週刊誌に売り込むんだよ」
「ええぇ……」
「それから、試合でミスするたびにネットで悪口を書くんだ」
「陰湿……」
「君のSNSに女性のふりしてDMを送り、下心丸出しの返事を暴露してやるんだ」
「最低……」
「観客席で君の熱烈なファンを装って、相手チームを中傷したりするんだ」
「試合も見に来るんですか……」
「ベンチスタートのときは、君を使うように監督にずっと声をかけ続けるよ。君が試合に出てミスしてくれないとつまらないからね」
「ちょっと、ファンでもあるじゃないですか」
「そういうことだから、やる気を出してくれるね? レギュラーなんて、努力すれば取り戻せるさ。ははは! なんなら、おじさんがその奪った相手を怪我させに行っちゃおうかなあ! なんてね! はははははは!」
「いや、いいです……」
「ああ、冗談だから怖がらなくていいよお。まあ、君のことを怪我させてやろうかと考えたことは何度もあったけどねえ! さっきも突き落としてやろうかと思ったよ。ちくしょうがよお! あああっ! はははははは!」
「いや、その必要はないって意味ですよ」
「おっ、やる気になってくれたみたいだね。よかった、よかった」
「いや……ほら、あそこを見てください」
「あそこって? ん? 川に何か浮いて……え、あれって人――お、おい、ちょ、ちょっと、危ないよ、何する、ああぁ!」
川底にぶつかる鈍い音が響いたあと、あたりには静寂が戻った。彼は川を見つめ、ぽつりと呟く。
「あれが、僕のレギュラーを奪ったやつです。そのことで、さっき、あいつが僕を煽ってきたんで、それで、カッとなって……でもこれで、きっとあなたのせいってことになりますよね。ありがとう。あなたの犠牲を無駄にしないように、プロを目指しますね……」