覚悟
その日は真冬にしては暖かい日だった。
掃除を始めるには最適で、体を動かして、考えなくてもいい事は考えないようにした。
窓ガラスもピカピカで、桟もキレイになり、床はワックスを塗った。
「早くから大掃除を始めるのね」と、母からは驚かれた。
いつもと様子が違う事に気付いていると思うが、何も言わなかった。
…秀人からの連絡は2日前の忘年会から途絶えていた。
今までの事を思うと〝何か〟が起きているのは確かだった。
でも〝何か〟が起きていない可能性もゼロではない。
今、サヤに必要なのは、確かな情報だけだ。
不確かな情報はいらない。
自分の中に芽生えた悪い考えは捨て、ただ現実だけを求めた。
だから、あえて無理やり何も考えないようにする。
いずれくる、分かる時に備えて。
予定がない休日は1日が長い。
このまま家に居たら、余計な事ばかり考えてしまうと思ったサヤは、行き先を決めずに出掛ける事にした。
最低限、携帯とお金があればなんとかなる。
まだガソリンも満タンに近い。
行ったことがない所へ、見たことがない景色を見るために。
そして、少しの間だけ現実を遠ざけよう。
母親に出掛ける事を告げ、家を出る。
好きな音楽をかけ、帰宅時間も考えず、ただ何も考えず走る。
途中の自販機で秀人に買った無糖のコーヒーと、サヤの好きなリンゴジュースを買う。
その時点で日は暮れ、木が生い茂り、民家がポツポツとあるだけの場所に来ていた。
さすがに家に連絡を入れておこうと、携帯を見るも圏外になっている。
着信があれば音がなるから、とあえて確認もしてなかった。
秀人から連絡が入っていたらどうしよう…と真っ先に思い、現実に引き戻される。
すぐに引き返して、とりあえず電波が入る所へ行かなくては。
焦れば焦るほど、冷静な判断を欠き、どんどんと細い道になる。
これでは対向車とすれ違う事も難しいだろう。
街灯も少ない暗闇で、他の車も通らない中、針葉樹の生い茂る山道で不安がピークになる。
今日に限って新月で月明かりもあてにならない。
一旦落ち着こうと、車を停めて深呼吸する。
ライトに照らされた先をみると道が尚更細くなっている。
この先を進むのは危険だと判断し、車を待機所でゆっくり方向転換させ、来た道を戻る。
分かれ道にきたら、速度を落とし、より広い道路を選びながら進む。
やっと信号のある道路に出て圏外が解消されたので、母親に連絡を入れた。
「圏外になってたけど、今戻ってるよ」
「無事なら良かったけど、秀人くんが来たよ。サヤと連絡が取れないって」
悪い予感はあたる。
「すぐ連絡してみる」
一旦切って、どう話そうかと一瞬ためらった時、秀人から着信が入った。
「サヤさん、今どこ?」
秀人の声が静かに響く。
「目的もなく走って来て、よく分かってなくてごめん」
不安な時期を過ごしたのもあって、声を聞いただけで涙が出る。
こんなにも、秀人を必要としていたのかと身を持って知る。
秀人に会いたい。
「泣いてるの?」
「…泣いてないよ」
声を押し殺しても、相手には伝わってしまう。
「オレには独りで泣くなって言ったのに」
「…分かってる。ごめん」
「すぐに今居る場所をマップで確認して。途中まで迎えに行く」
「秀人、弟さんは?」
少し沈黙が流れる。
「後で話す」
指定されたパーキングで秀人は待っていた。
遅い時間で、ほぼ車は停まっていない。
停車させて降りると、秀人が近付いてきた。
いつもと違って顔も髪も無造作で、疲れている様子が伺える。
「心配かけてごめんなさい」
それには何も答えず、手に持った上着をサヤにかけた。
「弟のお通夜が明後日になったよ」
スッと血の気が引くのと同時に呆然とした。
サヤの目にみるみる涙が溜まっていき、周りがぼやける。
秀人がサヤを強く抱きしめ、泣いた。
秀人の背中を撫でながら、サヤも泣いた。
神様は何でこんな試練を、秀人に与えたのだろう。
みんなに親切で、丁寧で、〝いい人〟だと称賛される、こんな人になんでこんな苦行を与えたのだろう。
秀人の車に乗って、秀人に寄り添う。
ポツリポツリと弟の事を話す秀人はサヤの手を強く握っている。
時折見せる涙に、いい兄だったんだろうな、と想像ができた。
本当に秀人に寄り添いたいと心から願っても、秀人の悲しみには到底追いつけないのがつらかった。
秀人から流れ出る涙は、サヤが拭った。
サヤから流れる涙は、秀人が拭った。
お互いがお互いを想いあっていた。
「弟の事は、発症してからある程度は覚悟が出来ていたんだ。
もしも存在がなくなったら、と何度か想像した事もある。
でも、想像出来る覚悟なんて自分の範疇だけで実際にはこんなにツライものだとは思わなかった」
秀人も長い間一緒に闘ってきたんだろう。
秀人が泣き腫らした目で見る。
「サヤさんは居なくならないで。
今日みたいに連絡がつかなかったり、手の届かない所で泣いていると、息が出来なくなる。
サヤさんの存在がなくなるのは、想像すらしてないから」




