自然及び自然な人への憧憬
身近な人の死に際してこのことを思い出す訳ではないでしょう。ふとしたときに、まるで私に警告を与えるように、記憶の方から思い出させるものなのです。今、こうして書く動機も、私への警告の故かもしれません。私はまだ、死人に感情を訴えるほど、成熟した人間ではないのですから。
祖母の愛は何よりも深いと思っています。あれほどの愛情は、田舎特有の長閑さを己のものにして、昔ながらの一筋の芯なるものを(それは普段は出さないのでしょうが)持っていて、生き方そのものが実直な美しさに包まれたとき、自然と醸し出されるものかもしれません。祖母の家は線香の匂いがしました。幼児の頃はそれを興味津々と笑っていました。小さな足を行儀よく正座させて、仏壇に手を合わせる。面白がってりんを鳴らす私と、それを幼子の戯れだと思って林檎を持ってきてくれる祖母。チラシの裏紙に迷路だとか似顔絵だとか、落書きを書いた思い出があります。祖母はしっかりと生きていました。私は、今、都会の中の目先の利益だけに動かされているけれども、そして都会か社会のどこかでは資本と知識の豊富さを尊ぶために田舎を馬鹿にする流行があるけれども、祖母の住まい方を見れば、寧ろ人間の美しい生き方とは、生活や人間関係すらも自然的であるようなものだろうなと、そう思うわけです。
祖母は料理が上手でした。家に向かえばよく菓子か果物か、夏ならアイス、冬なら餅、そうしたものを食べさせてくれました。還暦を過ぎても毎日歩いていて、健康的。頬にも生気がありました。隣家の方々との談笑、夫(つまりは祖父)の扱い方、買い物の仕方、料理の作り方、朝夕のテレビをゆっくりと見るあの団欒。夫への文句は言いますが、それすらも裏打ちされた愛があることが自然に分かります。孫の私に見せる顔は、常に笑っていました。今でも思い出すのは笑顔ばかり。私はこれからあんなふうに、豊かに生きれるのでしょうか。
「美味しい味噌汁の作り方を教えてもらえばよかった」
墓参りするたびに思い出されるこの後悔は、今後も、何度も想起されるのでしょう。
祖母は気丈でした。佇まいが美しい。揚々として、死にゆく姿すらも想像できないほどです。今も生きていると感じてしまう。すると都会における死ほど、真に孤独なものはないのではないか、と思ってしまうのです。暖かい陽光を浴びて、森林の青々とした木々が7月のさらりとした風を受けて葉の音を豊かに、美しく奏でています。カフェで嗅ぐコーヒーのゆるやかさは一時しのぎにしかならないけれども、故郷は世界全体がゆっくりと生きているようで。デジタルデトックスなんて概念すらもその世界では無用になります。私は「全ては原始的であるべき」だとは主張しないけれども、自然的な人間の生き方というのに憧憬の念を持つことが悪い、ということはないでしょう。
自然の本当の力強さというのは、或いは本来の恩恵というのは、海水浴や温泉のような可視的なものだけでなく、簡潔に言えば「緩やかな雰囲気」、「本人の責務を全うして後はごろ寝をするような、生き急ぐ必要のない生き方への肯定」。町おこし、という言葉がありますが、勿論それを否定する考えは持っていないわけですが、田舎特有の自然的観念に都会的な(少なくとも産業的な)町おこしがどのような関係を構築しようとしているのか、私は、あの幼児期のような興味津々な態度で、面白がって見ているわけです。
祖母が亡くなる前、病院の狭い個室に、肉体は悲鳴を上げているかのように真っ白で、顔もやつれていました。病室は壁も床も真っ白でした。自然はありません。窓も閉じていました。そのときは一通りの家族全員がその個室に居て、祖母は少し快活に談笑していましたけれども、それは病室というのが全く自然的でなくて、無味簡素で、無骨で、無機質で、流れるような変化も無くて、私達という話し相手の居ることに楽しさを見出しているようで、つまりは不健全的な楽しみで、一時の享楽を必死に咀嚼しているようでした。私も、外のことを話しました。幼かったので、畢竟自分周りのことしか話せず、祖母のことを思いやって話してはいませんでした。それでも祖母は何度も頷いてくれます。笑窪が見えます。元の祖母には戻らないことが確定しているように思えてしまい、痛々しい身体を直視することはできませんでした。今にして思えば、それは祖母への気遣いになっていたのかもしれません。他の家族の皆が別で話し込んでいて、祖母の話し相手が私だけのときでした。突然、こう告げられたのです。
「死にたい」
はっと祖母の顔を見ました。顔は痩せこけていて、あまり食事を喉を通っていないと言われたことを思い出しました。頬は下がり、眉は近づいていました。目の中の瞳は悲哀そのものでした。あの祖母が、気丈な祖母が、落涙しそうになっているのです。祖母の人生の唯一の悲劇的な訴えのように思えました。それは一瞬の弱みでした。私にしか見せないようにしていたのでしょう。他の皆が祖母に話しかけようとするときには、また精一杯の元気さを振りまいていました。巷のアイドルだとかアーティストだとか活動家だとか、そういう存在よりも間違いなく、懸命に。
あの時の雰囲気、表情、言葉。それは今も間違いなく克明に覚えています。でも、ずっと、疑問に思っているのです。なぜ、私にだけあの表情と言葉を向けたのでしょうか。私が幼かったからでしょうか。幼かったから、知られてもいいと、そういう思考だったのでしょうか。何か、違う気がするのです。私は、果たして他の人よりも優しかったのでしょうか、純粋だったのでしょうか、女々しさがよりあったのでしょうか、或いは自然的だったのでしょうか。もし自然への憧れを私に見出したのなら、幼い私の頭を撫でてくれるようにその言葉を向けたのでしょうか。病室で苦しんでいたことだけが、事実的な肯定でありましょう。それ以外に確信的なものはありません。あとはあの表情と言葉だけ。それも写真や動画などに収めている訳がありませんので、私の記憶の泡沫になりそうなのです。祖母は社会の偉人などではありません。しかし、私の偉人ではあります。それは肯定できます。祖母の存在も、きっと、自然的なものへとなってゆくのでしょう。祖母がそれを自然に望んでいるようなのですから。そう思えば、都会的な不安とか勝利思考とかはどうでもいいものに感じるのです。
最後に祖母の暖かな手を握ったのはいつでしょうか。あの悲しそうな目を向けて、何かに縋るように、私の手を握った時でしょうか。亡くなった時、やはり生気のない肉体を直視できませんでした。でも、安らかに眠っているようで、美しかったことだけは覚えています。三途の川を悠々と渡ることができたのでしょう、私はそう解釈しています。
祖母の火葬の直前、その頃既に祖父はボケ始めていましたけれども、肉体が肉体的である最後の瞬間、祖父の乾燥しているようなしわしわの顔のその瞳から、涙を落としていました。それも私だけ気付いたようでした。祖父の涙も初めて見ました。きっと、脳という人間的な器官の能力を超えて、精神と身体に訴えかけるものがあったのでしょう。祖母も、そうであったのかもしれません。「死人にもの言いかける」というのは、人類の初めの頃からあった習わし、人間が人間的であることの証左のように思いますが、それすらも都会の孤独の世界では亡失しているように感じます。祖父母は人並みに旅行もしていたようですが、日常平素に送る日々のその話題の方がより楽しそうでありました。人間の美しさ、つまり大まかに「美」というものは、現代では、もしかしたら、体に身に付ける装飾品、ブランド品、立派な衣服、ジムやエステの健康、ヘルシー志向か高級食材で作られた食事、あるいは手作りを強調された料理、最低限を決めた恋心、設定された生活、ビジネスの作法、決められた娯楽、人工的に象られた作品達、所有することでの安心感、都会の喧騒を忘れてくれる自然なる存在、若しくはカフェで飲むコーヒーの落ち着かせてくれる良い匂い、そういうものが当然的なのかもしれませんが、私にはどうも、自然の中の人間、肌と肌との接触、ゆっくりと流れる時間の中で育む自他への愛、そうしたものの方が人間の想定を超えて、涙を溢れさせるような美しさを見せてくれるように思うのです。豊かな幸せのように思われるのです。