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26 レディ・アーミュティース


 人界に帰る前にタカヒロと須美と俺がお姫さんの部屋に呼ばれたので、すごくびっくりした。これまでは用事があって、あるいは見舞いをさせてほしいと申し入れて、お姫さんの承諾があってやっとこ訪ねていくことができたのだ。

 お姫さんはいつもの寝椅子に横になり、気だるそうに半身を起こして俺たちを迎えてくれた。


「何も関わりなかったことにして眼を逸らしても、現実は変わらぬ。

エイセニアは死んだ。そなたらは短慮だった。

それが現実じゃ。

あの大風と大雨がこの世界をも破壊しつくし、そなたらに止める術はなかった。

それが現実じゃ。

しかし」


 レディ・アーミュティースは、俺たちの眼を覗き込むようにゆっくりと言った。


「縁もゆかりもない我々のために、そなたらが手を尽くしてくれたことも現実まことじゃったな」




「本来なら決してやらぬことじゃが……一度だけ見せてやろうかの」


 レディ・アーミュティースは須美を引き寄せてそっと額をくっつけ、タカヒロと俺の頭を皺だらけの細い手で掴んだ。

 次の瞬間、ありえない光景が頭の中で弾けた。


 どこまでも続くなだらかな丘を、薄いピンクに濃いピンク、ありとあらゆる色調のピンクの花が絨毯のように覆っている。

 澄み渡った空はラベンダー色に霞み、花々の色が映っているようにさえ思えた。

 花々に彩られた丘をゆっくりと下り、緑の木々に縁取られた小川のきらきらする水面が見えてきたとき。


「これ……あの丘から村へ続く道ですか」


 タカヒロが囁くように言った。

 まさか……?

 でも、そう言われて見ればこの地形は、確かにいつも召喚されたときに見下ろす、村へと続く道だ。


「そうじゃ。

そなたらがいつも見ている景色も現実。

しかし、この風景も、そなたらの選ぶ未来かも知れぬ。

ここへ至るか、倒木と荒地ばかりの丘をそれしかないと受け入れるか……

自然かといえば自然なことではないかも知れぬがのう」


 レディ・アーミュティースの声が優しく響く。


「いついかなるときも、選択の連続じゃな。しかし、出発点を間違えてはならぬ。

現実から眼を背けぬことじゃ……現実を見据える者にだけ、選ぶべきたったひとつのみちが見える」


 幻の風景なのに、風が渡っていくのがわかる。

 かすかに花の香りが運ばれているような感じさえする。

 風に乗って早いスピードで再び丘の上に引き戻され。


 目を開けると、ものすごくきれいな女の人が目の前にいた。

 燃えるような赤い髪が足首まで届く巻き毛の海になって白い顔を縁取っている。

 金色の大きな眼が微笑みながら俺たちを見下ろしている。

 その白い両手は俺たちの頭をしっかと捕まえていた。

 

「レディ…アーミュティース。

これが本当のお姿なんですね」


 自然と言葉が出た。

 俺の膝は立っていられないほど震えていた。

 タカヒロは声もなく、ただただレディ・アーミュティースを見つめている。

 須美はお姫さんに髪を撫でられてうっとりしている。


 どれほど時が経ったのか。

 幻は消え、すべては元に戻っていた。

 花に覆われた丘はむき出しの土に。

 緑の木々は倒木と裂けた幹をさらして。

 きらめいていた小川さえも、濁って淀んだ流れに。

 そして、レディ・アーミュティースはいつものバーサン姫の姿で寝椅子に横たわっている。


 人界に戻った翌日、タカヒロが《緑の剪定鋏》が見当たらない、と言った。


「僕、どこかに置き忘れたみたいだ」


 タカヒロは微笑んでいた。すがすがしいような、痛々しいような、まぶしい微笑み。


「《置き忘れる》ときが、来たんだな」

「うん……、そのようだね」


*****


「タカヒロ、もう一枚ゴミ袋もらって来てくれ。俺この板切れ結わえて運んじまうから」

「あー、わかったよ。だいぶ片付いたね」


 タカヒロが汗を拭いながらふわりと微笑む。

 ヤツはやっとこの頃また普通に笑うようになった。

 台風の前に植えた草花は、板切れや落ち葉を取り除けて一週間もするとまた葉を拡げ始めた。

 台風一過で好天の暖かな日が続いたのも良かったんだろう。宿根アスターやなでしこ、白とブルーのサルビア、コスモスなどが再び蕾をつけて、もしかしたら寒くなる前にちょっとくらいは咲いてくれるのかもと期待を持たせる。


 タカヒロは台風前に植えたバラの根をしっかりと埋めなおし、丁寧にピートモスで覆って回っていた。折れたり枯れた枝もどんどん切っていく。

 あんなに切ったらもう今年は伸びないんじゃないかと思ったが、あれよあれよという間に切ったあたりから新芽が出て枝を伸ばし、葉を開いた。


 ゴミを運び終えて戻ってみると、タカヒロはゴミ袋を手にしたまま花壇の中心に佇んでいた。

 タカヒロからぼうっと光が射しているのかと錯覚するくらい、目を輝かせている。


「レンジ、見て」


 駆け寄ってみると、一本のバラに、小豆粒くらいの蕾がついている。


「これ…タカヒロのお姫さんじゃないのか?」

「うん……。姫君、お元気なんだね」

「今年のうちに、花見れるのか」

「たぶん、このまま行けばね」


 タカヒロは顔を上げると明るい顔で言った。


「誰か、あの剪定鋏を拾ったかな?」

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