プロローグ 明日からテストなんだってば
つまんねー。
高二の夏も何事もなく健全そのものに過ぎてしまった。
ちょっと夜中に補導されかけたり無免許でバイク転がしてコケて病院で言い訳に苦労したり(学校にはチクらないで下さい)バイト先で客に言いがかりつけられてクビになったりした程度。
部活やってるわけでなく、成績は中の下(楽観的に見積もってだな)、友達はそれなりにいるけどカノジョはナシ。
ゴールデンウィーク前に拾った鳥は元気に家に居座り、俺以外の家族にも慣れてきたが、他の人が触ると怒るので結局世話は全部俺がやる羽目になっていた。
鳥のカゴに覆いをかけて寝かせてやり、そろそろ風呂に入ろうかと思って立ち上がると、台所で夕食の後片付けをしていた母親が振り返りもせずに言った。
「レンジ、あんた明日からテストなんでしょ。ゲームばっかりやってないで勉強しなくていいの?」
自分の眉間にふかーいシワができているのがわかる。
「カンケイないだろ」
不毛な言い合いを予期した俺はちょっと身構えた。
最近、母親とはそんなんばっかりだ。
が、今日は違った。
母親がいきなりキレた。
「これ持って」
なんで牛乳パックと箸?
「庭のナメクジでも捕ってなさい」
いや、力ずくなら負けっこないんだけどさ。
例え母親にでも女に手を上げるのはちょっとね。
ひらたく言えば、牛乳パックと箸とナメクジにハア?となってる間に、ベランダから庭に追い出されちゃったのだ。
かちり、とベランダの鍵を閉める音が聞こえた。
ひでー。
「ケータイか財布でも持ってくりゃ良かったな。親公認で夜中のおでかけ、ってとこだったのに」
手にしているのは牛乳パックと箸。
牛乳パックは空だ。
ま、中身入ってても飲まないけどさ。
「ナメクジと牛乳パックに何の因果関係が」
ていうか、夜中に虫なんかいるのか?
月に照らされた庭をぶらぶらと歩き出す。
小さく肌を震わすような虫の声が聞こえてくる。
夏の終わりの夜はまだ暖かいけれど、時折吹く風が少し冷たくなったなあと思う。
狭い家の狭い庭だが、母親の趣味で所狭しと花や野菜が植えてある。
こう見えても、ガキの頃は草むしりやらトマト取りやら、母親を手伝いながら庭で遊んでるキュートな少年だったのだ。
「おっ、まだキュウリあるじゃん。でもこんなもん夜食にもなんないよな」
と思ったら……
びっくう!!
なんかいる。葉の縁にへばりついてる。
ぬめっとしてぬらっとして、月明かりにてらてら光って……
こいつ?
ナメクジでも捕ってなさい、という母親の言葉が甦った。
この箸で……
箸で……
掴めるかよっっ!
箸の先でつついてみる。
にゅうるりと、そいつが形を変える。
「無理無理無理無理無理無理無理無理!」
箸と牛乳パックを放り出し、俺は玄関へ回った。
案の定というか、玄関も鍵がかかっていて、母親は初志貫徹で俺を家から締め出すことに決めたらしい。
しかたなく玄関の風除室に座る。
なんだ、殺虫剤あるじゃん。
風除室はちょっとした物置状態で、傘やらスコップやらナゾの黒い液体やら、いろんな物が置いてある。
その中に混じって、特売の赤いシールがついた殺虫剤のエアロゾル缶もあった。
律儀に庭へ取って返し、さっきのナメクジに対峙する。
「いざ、ナメクジ、覚悟!」
シューーーーっ!
あれれ、目が回る……。
突然、ナメクジが小型犬サイズに見えてきた。
なんで?
必死でエアロゾルをかけまくるが、ナメクジはどんどん大きくなる。
イルカが陸に上がったらこんなかなあ。
なんで俺こんな暢気なこと考えてるんだと自分にツッコミを入れる。
心臓がばくばく言いだして、逃げようとしているのに足が動かない。
しまいに吐き気がしてきてエアロゾル缶を投げつけた。
殺虫剤の煙で目が痛い……。
手で払いながら逃げようとしたら、そのまま勢い良くひっくり返ってしまった。
カッコ悪……。
誰も見てないからまあいいけど。
なんでナメクジがあんな巨大に見えたりしたんだろう。
まだ頭がくらくらする。
殺虫剤、だいぶ吸い込んじまったせいかな。
少し吐き気がしたけど、とにかく起き上がった。
明日テストってのは本当だ。シャレにならない。
さすがにこれは、母親に土下座でもして家に入れてもらおう。
無関心の父親(っていうかいつも夜中まで帰ってこないし)と、中坊の弟……は、きっと味方になってはくれない。
引き返そうとしたが。
家がない。
俺の家がどこにも見あたらない。
ないですよ、手を伸ばせば家の外壁に触れるくらい狭い庭にいたってのに。
逃げようとして、意外と離れたところまで走っちゃった?
いや、そんなわけはない。
庭自体が畳を横につないで家を囲んだくらいの狭さだ。
トレリスや、低いけど塀もあるから、そんなに家から離れられるわけがない。
てことは、倒れてる間にどこかへ運ばれちゃった?
でもなあ……、俺の周囲にはまだ殺虫剤の匂いのする煙が漂っている。
そして、冴え冴えとした月明かりに浮かんで見えるのは、ウチの庭とは似ても似つかない光景だった。
俺は岩だらけの丘の上にいた。
眼下には、どこまでも続く緩やかな起伏の荒れ地、所々にまばらな樹木と思しき黒い影。
道らしい道はなく、遠くにぽつりぽつりと小さな家が見えるが、町というほどでもない。
振り向くと、煉瓦造りの壁がどこまでも続いている。
なんで……こんな場所にいるの俺?