失踪の部屋
ジャラッ……
鍵束をくるりと回しながら、さっさと隣の101号室へ向かう社長の背中に声を掛ける。
「あ、あの! 社長も……ま、また後で……」
『気をつけて』と相手の身を案じる言葉を言おうとして言い換えた。
この人に言うだけ、発声五文字の無駄遣い。
だって……社長の顔面、余裕綽々なんだもん。
地縛霊への立ち退き交渉が通常業務の範疇ってどういうこと⁉︎
不動産屋って過酷ブラック労働⁇
……っつうかこの人、本当に何者なんだろう?
………………
いやいやいや、だからこれも気にしちゃいけないんだってば!
あら、やだ。俺……自分が思っているよりも好奇心旺盛⁉︎
ちらっと俺の視界の端に、彼が高級スーツの下から何かを取り出そうとする動作が映り込む。
ぱっ!
咄嗟に、片手で顔を遮り、それを見ないようにした。
お、俺は何も見てませんよーー!
これ以上、むやみやたらに俺へ新情報を与えないで下さーい!
………………
「ふぅ……よし!」
ガチャッ……ギィィッ……
蝶番が軋音を生みながら、ゆっくりとドアが開く。
まるで俺を102号室の中へと誘うように……。
……ここが『彼』の部屋……和室が二部屋ある2DKか。
ふっと頭に、よく講義で見かけた四人組の一人の顔が浮かぶ。
あ……友人ズから『彼』の名前聞いておくの忘れたな……ドアの外に表札は無かった。
まぁ、防犯上は正解だろう。
『彼』の名字も分からず……か。
ぐるりと部屋を見回すと、確かに『失踪』という言葉がしっくりくるな。
室内干しの洗濯物や、捲れたままの布団、テーブルに投げ出されたゲームのコントローラー……何もかも、やりかけで中途半端…… 綺麗すぎず、でも汚いわけではない……生活感漂うプライベート空間。
ただ、キッチンだけは誰かが手を加えた形跡がある。
皿や鍋は綺麗に洗われて、吸水マットの上に逆さで並べてあった。
……親? それとも恋人?
『彼』を心配する存在が確かに出入りした証拠。
……もし俺が消えたら……誰か……探しに来てくれるんだろうか?
………………
残念だけど、誰一人の顔も思い浮かばなかった。
玄関で脱いだ靴をそのまま掴み上げ、近くの引き戸をガラリと開ける。
狭い洗面台には、歯ブラシやスキンケアグッズや整髪料等が絶妙なバランスでギチギチと並んでいた。
うおっ、よく崩れないな……。
それを眺めていた瞬間、ふと、車の中で社長に言われた言葉が思い出された。
「契約前の異世界は……そうだなぁ……超ど素人のDIY初作品って感じかな?」
「何、それ? どんな例えだよ?」
「作り方はよく分からないけど、材料が目の前に『ご自由にどうぞ』と言わんばかりにどんと積んである。それを使い『とりあえずこんな感じかな〜?』っていうイメージだけで無計画に建てられた小屋……」
「それは……」
「基礎工事もしておらず、釘は適当、建築ルールガン無視な小屋に、お前はずっと暮らしたいか?」
「……すぐに退避したいですね……怖っ!」
地震が来たら一発で潰れそう……それくらい不安定で歪な異世界……ってことか?
………………
あぁ、行きたくはないけど……行きますか……。
帰ってきたら焼き肉屋で高い肉ばっか注文してやるからな、社長!
覚悟しておけよーーっ‼︎
スマホを操作してから、すうっと息を吸い込む。
それをゆっくり全て吐き出して、俺は手鏡を洗面台の鏡面へ、そっと向かい合わせた。




