忘れ物はないか?
「本当に……本当にありがとうございます!」
少しだけ目を腫らした樋田さんが再度、深々と頭を下げた。
先程の涙と共に、憑き物が流れ落ちたかのよう……顔色ががらりと良くなっていた。
………………
ん? ちょっと変わりすぎじゃない?
写真加工アプリ使用のビフォーアフターみたい……別人級⁉︎
10歳くらい若返っていません?
え? どちら様ですか⁇
人の相貌を変えてしまうくらいに彼を怯えさせたものって、一体なんだったんだろう?
………………
いやいや、興味は抱かない方が身の為だ。
これは聞かないに限るな、うん。
彼は何度もペコペコと頭を下げながら去って行った。
それを見届けてから、社長は受け取った大判封筒に手を突っ込む。
じゃら……
中から出てきたのは鈍く銀色に光る鍵の束……このアパートのマスターキーか。
俺が行くのは……どの部屋だろう。
そっとツギハギなアパートを見遣る。
「っつうか、社長のことだから、アパートもっと安く買い叩くかと思った……一円ポッキリとか言って……」
「はっ! そりゃ酷ぇ金額だが……ないない。悪質な買い上げは法律に引っかかるんでな。うちは真っ当な商売をしている」
真っ当の対極に鎮座するお方が話を続ける。
「……嘘をつけば、そこにさらに嘘を塗り重ねないといけない。真実こそが最適解で、正直者が勝つんだよ。信頼を失ったらそこで終わり……『一生懸命頑張って信頼回復!』なんてのはただの幻想だ」
確かにな。
嘘や誤魔化しでいくらその場を凌いでも、バレて追求されたら即終わりだ。
相手になんて言ったかも、いちいち覚えてなんていらんないだろうし……。
そんな労力使うくらいなら、ハナから素直に行った方が楽そうだ。
あれ?
……そういえば、社長も俺に嘘はついていない気が……ただ、致命的なほどに説明が足りていないだけか?
それはそれで大問題だよ!
「さてと……俺は101号室に用がある。ハルは隣の102号室だ。訪問前に持ち物チェックしとけよ?」
「わ、分かってますって!」
どくんっ! どきどきどき……
自分の鼓動が早まるのを感じる。
あぁ、行きたくないけど……やるしかない。
俺は左肩にかけていた愛用の黒いボロリュックを地面に下ろし、中身を確認する。
「……一応確認ですけど、本当に契約書は要らないんですよね?」
「あぁ、セバメの再訪問時に正式な手続きになるから、それはアイツに任せとけ。じゃあ確認いくぞ?」
「はい!」
「鏡、コンパクト&ケーブル、食料、飲料、スマホ、靴……あと簡易トイレ……」
「はい! 事務所で言われた通り、全部持って来てますけど……その……簡易トイレって……」
俺は手に防災用の簡易トイレ袋を持ちながら、微妙な顔で聞き返す。
「時間の流れの感覚は人それぞれ異なる。今から行く異世界が早いか、遅いか……それは不明だ。トイレが間に合わなければ大惨事だし、そこで漏らした排泄物ですら異世界発展のエネルギーになる」
「うへぇ……」
うげっ、ちょっと想像しちまったよ。
だが社長。
異世界で放尿しようものなら、良くて出禁、悪けりゃ即死だよ。
たぶん怒りでぶっ殺されるに一票だな。
自分が死んだ魂エネルギーで出来た異世界を汚され喜ぶ創造主なんて、ただの超絶ど変態だろう?
「じゃあハル。聞き忘れたことはないか?」
「……それは後で思い出して、ひたすら後悔するやつですよ」
「確かに違ぇねぇな。ま、死なない程度に頑張れよ」
俺に向けて予想通りの死亡フラグを立てながら、社長は『102号室』とテープが貼られた鍵を回し、扉を開けた。




