これ。
「で、ハル。病院は間に合ったか? 怪我の具合はどうだ? 金は足りたか?」
土間玄関に置かれたベンチに座り、背中から取り出したラーメン屋のメニュー表を眺めながら聞いてくる。
「……え、えっと……」
思ったよりも100倍優しい社長の言葉よりも、たった今、放り投げられた『これ』と呼ばれたものに俺の視線は釘付けとなっていた。
リノベのせいか、この物件は玄関土間が広々とした設計になっている。
六畳くらいはありそう。
その無機質コンクリートの三和土へと無造作に放り投げられ、横たわった『これ』……口から泡を吹き、白目を剥いたままの人間……の男だ。
大家の山吹さんといい、まさか一日に二回も気絶した人を見るとは……。
………………
あれ? ピ、ピクリともしないけど……?
い、生きてるよな……?
じーーっと目を凝らすと、浅い呼吸で微かに身体が上下しているのが見えた……よ、良かった!
「し、社長! こ、こ、この人は……?」
「ん? あぁこいつは、なぁ……お〜い、起きろ! ラーメンの出前頼むけど、お前は何がいい?」
いやいやいや、起こす理由が……何か違う!
社長が出前のメニュー表で突っついて揺すっているが、意識を取り戻す様子はない。
ねぇ、なんか可哀想だから、ツンツンするのやめてあげてーー!
「そうそう、こいつがさっきの電話の主だ」
うん、でしょうね。
「貸した物件でプチトラブルがあってな」
……とりあえず死亡フラグは回避できたんですね。
「③修行クソ野郎であり①貧乏人な②メンヘラ男だ」
わぉ! トリプルコンボな借り主⁉︎
俺は①なだけ……比較するのも恐れ多いぜっ!
社長の言い方にも、なんだか棘があるな。
………………
ん?
「ちょっ、ちょっと待って社長……さっき『これ頼む』って……聞こえた気がするんですけど……言った?」
「あぁ、言った、言った! こいつの住む処はまた明日探すから、とりあえず今日はここ泊めてやってくれ」
………………
「……はい」
『いいえ』という回答権はこの場に存在致しません。
ねぇ、泣いてもいいですか?
「あ、さっき借りたお金は使わなかったんでお返しします。ありがとうございました」
「ん? あぁ、彼女から慰謝料でも貰ったか?」
「えっ⁉︎ えぇ、まぁ……」
俺の負傷具合は詳しく説明していないのに、やたらと察しが良い。
……社長はソラさんの事情、どこまで知っていたんだろう?
彼女が一体何をしたのか……とか。
パタン!
急に手に持っていたメニュー表を勢いよく閉じて、裏面を一通り眺めた社長が口を開く。
「よっし! とりあえず、もう夜の9時近いから……あっさり中華そばと焼豚炒飯に餃子もつけよう。お前らも同じでいいか?」
「思ったより、ガッツリいきますね。小腹じゃなかったんすか?」
「まぁ、そこそこ動きゃ腹も減るからな」
………………
①出る物件で何があったかは……あえて聞かないでおこう、うん、それがいい。
世の中、知らない方が幸せなことだらけだからな。
ガチャ!
「はいは〜い! 私はこってり背脂マシマシ豚骨ラーメンにライス大盛り、トッピングで明太子がいいなぁ!」
「⁉︎」
「よぉ、遅かったな、セバメ」
可愛い声のする方を振り返ると、ツナギ服からいつものメイド服に戻った美少女事務員ちゃんが、挙手をしながらドアを開け入ってきた。
……ここの洗面所のドアを開けて。
………………
異世界の往来は洗面台の鏡で永年フリーパスって訳ですかい?
セバメさんがオーダーしたヘビー級ラーメン、彼女の異世界にとって膨大なエネルギー源になりそうだなぁ、とぼんやり思ったのだった……。




