008 置いてきたもの
「―――今度のエア・モーターの展示会でさ……」
嫌いじゃない話も上の空で、叶は友人の手元にある画像を見ていた。
それも視界に入っていると言うだけで、意識内にはない。
休んでいたスクールへ久々に登校し、授業ではなく補習の講義を受けていたのだが、いまいち身が入らず、空いてもいない胃袋に昼食を詰め込んで、楽しく過ごすはずの休み時間すら空虚であった。
教室の机でボンヤリとその声を右から左へと流している。
「話! 聞いてるか?」
バンと大きな音を出して叶の背中が叩かれる。
「うっ……わっ」
前にのめりそうになって慌てて友人の服をつかんだ。
「なんだよ、服が伸びるッ」
「叩いた本人が言うなよっ」
そのまま思いっきり服を伸ばした。
「わー、止めろ止めろ」大げさに騒いで叶の手から上着の裾を取り戻し、後ろに飛びのく。「でも痛くなかったろ?」
「水飲んでるときとか、そういうの無しだ、セアド」
「だってお前さぁ、人の話聞いてないからじゃないか。久しぶりかと思えば心此処にあらずだし、もうちょっと俺の相手してよ」
掌を叶の頭に載せて、セアドは顔を覗き込んだ。
「ワクチンとか打って後遺症なんじゃないの? 俺は普通に済んだけどな」
「そんな事は無いよ……」
一瞬、気がそれたと思ったのだが、「ワクチン」一言で再び沈鬱な気持ちに陥ってしまうのである。
「後遺症とか、そうじゃないんだけど」
言いかけて、グッと飲み込んだ。
それ以上は言えない。いや、言われないのだ。
以前のような、常にどこかが不調を訴える体ではないのはわかるが、それだけで喜べる気分ではない。
「……お前さ、悩み事あるんだったら吐き出せよ。なんたって思春期絶好調だぜ? 俺ら。こう、なんていうか、今吐き出さないと十年後あたりも暴れそうな」
「十年後も、ってそりゃ迷惑な……。悩み事……ああ、うん、悩み事ね、吐き出せたらね」
ハハと困ったような笑顔を作ると、反動で大きく息をついてしまった。肩も自然に落ちてしまう。
―――あの不思議な少女キアラと出会ってから、二週間と言う日が経った。
“思い出を探しに”
そう言って、その空にも溶け込んでしまいそうだった彼女は居ない。
叶自身もトラックでの出来事以来の記憶が無い。
昏々と眠り続けて目が覚めたら、看護医療ロボットが甲斐甲斐しく世話する自宅のベッドだった。
目の前に母の顔があって、心配そうにしていた。
(街で倒れて病院に居たそうよ)
――街?
(そう。それで容態が落ち着くまで眠って、そのあいだにワクチン投与したって。街の中でよかったわね)
何のことか分からずに、最初はそうなんだと思おうとしていたが、次第に頭がクリアになってくると、作られた記憶と封じられそうな記憶の相違をはっきりと区別認識し始める。
―――すると、僕はタウンにいた事になるのか……
試しに家庭用の端末に自分のIDカードを差し込んで閲覧すると、自分の病歴欄には確かに緊急搬送、入院、集中治療室、ワクチン投与、そして退院までの細かい履歴が書き込まれていた。
ワクチンと体が互いに馴染んで安定したところで、家に戻されていたらしい。
―――知ってるのに……
キアラと、ジョット軍曹と、あのトラックでの出来事。
こんな大嘘を自分のIDに書かれてしまったことは、それなりにショックである。
無かったことにしなくてはならないのは、本能的に察知できた。軍が関与しているだけで事の重大さは充分に理解できる。
あの瞬間に、一人の少年が負うにはとてつもなく巨大な重責を共有することとなってしまったのだから。
―――触れてはならない。
誰かが警告する。
―――あれは良くない。
それは感情にも訴えてくる。
(なんでさ、なにが良くないんだ……)
それは穏便に済まそうとする自分だった。
そうして萎えそうになる自分に、必死に抵抗する存在も居る。
(何が悪いのか、誰も説明してくれないし、できやしないじゃないか)
中途半端は、許せないと言う。
オトナはいつだって都合の悪いことは、みっともないって隠すんだ。
隠したって見えるものは見えるのに、臭いものに蓋だけして汚物がどんな風に穢れていっても、みんな知らん振りをするじゃないか。
キアラは、記憶に残らないほど外界の思い出が無いと言っていた。
なんで彼女はそうして閉じ込められなくちゃいけない?
知ってはいけないことって?
複雑に絡む思考が、ある一方に先鋭化しようとしている。
(彼女は、傍にいるって約束したんだよな……)
最後の言葉は鮮明に覚えていたが、あの物々しい雰囲気ではそれは外部の力によって強制的に反故にされたものだと思われた。
(思い出だって探せていないのに…)
手伝うよ、って軽い気持ちだったのに、僕に理由が出来てしまったんだよ。
そういうの、運命的な邂逅だって難しい言葉で言うじゃないか。
どうしたら、いい……?
どうしたら、この理由を解決できるんだろう。
このモヤモヤとした異次元的な迷いは、数少ない手持ちの手段にエネルギーを集中させて、爆発的に顕現する事がある。
キアラと言う少女が指標になって、行き所を失ったものが定まって行く気がした。
こういうときは、どう動くべきか。
叶は時計を見て、昼休みの残りを確認する。
「―――あれっ」
セアドが、急に立ち上がった叶を見上げた。
「どこ行くんだよ」
「図書館」
一言投げて、叶は小走りに教室を出て行くので、勢い呑まれたセアドも「えっ、あっ、ちょっ、待っ」とあたふた椅子から立ち上がった。
風が緩やかに吹きぬける校内のだだっ広いホールを抜け、廊下の先に隣接する図書館めがけて駆け込んでいく。
「なぁ、なに調べるんだよ。急に読書とかしたくなったのって冗談だよな?」
なぜか付いてきてしまったセアドが、後ろから声ごと追いかけてくる。
「読書じゃないよ。もしかしたら読書になってしまうかもしれないけど、先生だって言ってるだろ? 疑問があって答えを得ようとするなら、まずは資料探しからだって」
「うわぁ……なんてマジメなの叶さん。すごく自発的ってヤツですね」
「なんだよ、セアドも覚えてるじゃないか。取っ掛かりって、どっかにあるんだよな」
高くて丸いアーチ型の天井に明るさを押さえたライトが並んで点いていて、自分だけを照らしている。その下に居る叶たちは、光量は少なくても広範囲を明るく満たす照明の傍らにいた。
居並ぶ利用者の後ろに立つのももどかしかったが、図書館のフロントでIDを見せ、専用のキーを借りると、館内の中央を貫く幅広の通路に置かれた専用端末の一つに座った。
ばたばたと落ち着き無い様子に、何人かが叱責の視線を送って寄越す。
―――さて
意気込んで来たのは良いけれど、何から手をつけてよいか分からない。
「……」
端末の前ではたと止まる。
「どうしたんだよ」
セアドが怪訝そうな顔で叶を見やった。
そのセアドを見つめ返すと、「例えば……、まったく意味不明な事件が起きたときに、何から考えるべきなんだろう?」
「そりゃ……」
口ごもるセアド。
「なんでそんな事件が起こるんだよ」
「なんでって……たまたまそこにいて、そしたらそこにそれが居たんだよ」
「えらい抽象的でわかんないや。俺がそこに居たわけじゃないからさ―――でも、そこで手掛かりになるようなものがあったなら、それで検索してみたらいいんじゃないか?」
「手掛かり」
「そうだよ。例えば……なにか物を拾ったとか、そこで何をしたとか、あと、誰がいたかとか」
「ああ、自分の身近にあったものだね」
「うん。んで、ものでも何でもいいけど、名前とかあるじゃん」
それで突破口が急に見つかったような気がした。
名前―――
そうだ、名前だ。
名前と、容姿と、言動と、これだけ情報があるじゃないか。
キアラ―――