006 その約束を
冗談じゃない。
いくら医師がいて、キアラだったとしても、そんな注射。
得体の知れない物質が叶の体中を駆け巡る映像が、一瞬だけでも脳裏に浮かぶ。が、あまりにおぞましいので考えるのをやめる。
目隠しが効率よく彼を恐怖に陥れた。
「……何を……」
やったんだ、とうわ言のように呟くと、叶の手を握ってキアラが囁いた。
「不安? 不安よね。でも安心して。これは血清みたいなものだから、あなたは助かるの」
「血清って――?」
彼の質問を遮るように、キアラは続ける。
「首に鎮静剤を打ち込むわ。あなたは暫く眠る。ちゃんと設備の整ったところへ行って………私がずっと付いてる」
終わるか終わらないうちに、頚動脈に冷たい何かが押し付けられて、空気の抜けるような間抜けた音がする。
「そばにね……」
約束、と言う言葉を聴きながら叶は意識が遠くなる。
まったく、今日は何度目だろう、こうして前後不覚になってしまうのは。
きっと夢も見ないで、目が覚めることがあれば現実に絶望してしまいそうな……いや、たぶんみんな冗談で済むんだ。
少女からこの注射までまったく理解できないことだらけの中、辛うじて意識して自我を保てるのはこの病気のお陰だったかもしれない。此処まできたらパニックに陥っても良かったが、そうなる前に、体の重みさえ無くなる世界へと落ちていったのであった。
叶を載せて走る軍用のボックス・トラックは、そんなに広くもない車内でも部屋と通路に別れていて、その一角に叶とキアラ、ジョット軍曹が三人詰め込まれていた。
武装を顕わにした小さめの車両が数台、トラックを前後に挟むよう配置され、少しの誤差もないほどの正確さで、つかず離れず滑っていく。
彼らが走行する道路はタウンを外れていつしか専用道路になり、小高い丘の影へと滑り込んでいった。
昼のエネルギーと夜のエネルギーが入り混じる混沌とした時間帯が、人の視界を惑わすように悪くする。
それすらも充分でない風に人目を避け、ダークカーキの建物の前でトラックはようやく停まった。
ジョットが車体脇の扉をスライドさせると、キアラに手を差し出した。
「キアラ様。貴女には大人しく部屋に戻っていただきます」
その命令口調に体を強張らせる。
「ダメよ。部屋には戻らないわ。叶のそばに居るのが約束なのよ。そう言ったんだから」
「彼は集中治療室に入ります。傍には居られませんから、あなたでは何の力にもなりません。それに―――」
デジレが、叶を運び出す担架に手を掛けながら、二人の会話を遮った。
「貴女の体も休めなくてはならんでしょう。病気のようなものですから」
「……! 病気なんかじゃないわ。少し疲れるようなことになっただけでしょう……」
兵士が乗り込んできて担架をトラックから下ろすと、叶が目を覚ましてしまうかと思うほど揺れた。
「―――モニターで見れるようにしましょう。それなら我慢できますか」
「デジレ。モニター越しが約束を守ることになるのかしら? 馬鹿げたことを言わないで。ジョット軍曹、私の要望はなぜ通らないの」
「キアラ様は、何もしてはならないのです。ですが―――デジレ先生、治療後であれば面会を可能に出来るかダニロバ大尉に確認するので、その方向でお願いしたい」
「構いませんよ。許可を貰ってくだされば、私はいつでも。……それじゃキアラ様、彼が落ち着いたら貴女の“診察”も」
デジレもトラックを降りると、叶が運び込まれた施設内へと入っていった。
続いてキアラとジョットの二人、トラックを出たが数人の兵士に囲まれて叶たちとは別の方向に歩く。
「……」
眉根を寄せて、叶の行った方向を二回ほど振り返った。名残惜しそうに、だがそれ以上に悲しさと、もう一つの感情を宿らせて。
―――何をするにも障壁が立ちはだかる。
キアラは恐らく、自分の雁字搦めで不自由な身分に今更気が付いたというのだろうか。
この物々しい軍事施設の一角に閉じ込められた、高貴な虜囚―――
薄暗い空気の中で、キアラの薄空色の髪が光を纏ったように見え、同じ色の瞳も僅かな光を反射し、まるで水晶の泉の底から拾い上げたような色彩を放っていた。
見た目の可憐な少女とは正反対の、妖しい魅力を秘めた冷たい女王のような風格すら感じるし、何が彼女の中にそのようなギャップを生じさせているのか、謎めいた泉は深淵の様相を呈している。
彼女の意見は何ら通ることも無く非情なまでの強制によって、一行は敷地に建つ幾つかの施設のうち、二階建ての低い建物に入った。
厳重なセキュリティを数回潜り抜けるうちに、彼女を取巻いていた兵士の数が減っていく。
最終的にはまたジョット軍曹と二人きりになるのだが、大量の監視カメラが備え付けられた廊下の手前に来ると、ジョットはそこで立ち止まった。
「―――キアラ様。デジレ先生が診察に来るまでお休み下さい」
お目付け役の彼ですら、入れるのはそこまでなのである。
アンドロイドと警備員が居るゲートは、少女が入るに不似合いな厳しさで作られていた。
不機嫌に歪んだ唇のままジョットを見やり、それからゲートを潜ると二人の女が立って待つ。
「お帰りなさいませ、キアラ様。体を冷やさないように浴室の用意をしてございます」
「デジレ先生からはご連絡を戴いております」
深々と頭を下げて少女を迎える光景は、ますますキアラの奇妙な身分を錯覚させた。
二人の間を黙って通り過ぎると、女たちは彼女の後ろを歩いていく。
その姿を確認すると、ジョットは警備員の肩を叩いて囁くのである。
「屋外のサイボーグ犬は増やしてあるが、今後、同じ事態が起こっても怪我をしないように気をつけてくれ」
それから、警備隊長は何処かね、と訊ねた。
◇ ◇ ◇
――煌々とした青白い光で満たされる集中治療室。
そこに移送された叶は鎮痛剤で昏々と眠っている。
注射された液体が何なのか、見た限りではなんの変化も見られないが、体内では想像を絶するようなことが起きているかもしれない。うっかり変な生体反応が出たら大ごとである。
普通ならば他の医師に任せてキアラの元へ向かうところだが、滅多にない症例でもあるので、そういうのはやはり自分の目で確かめたいものだ。だから思いもかけず治療室に長居をする事になってしまった。
「……妙なのを拾ってしまいましてね。お手を煩わせて申し訳ありません」
治療室を窓越しにデジレが覗き込んで、傍らに立つ男に言った。
「キアラ様も物好きと言うか、一応我々としては一般市民を守る立場にもあることですし、治療はします」
「うむ」
「―――で、どうしましょう。彼の扱いはお任せしますが、大尉」
鼻の下に濃い鬚を生やす大尉と呼ばれた男は、それまで叶のパーソナルデータを読んでいたが、眼光鋭く少年の様子を窺うと、
「どうもこうも、このまま丁重に帰宅してもらうほかはあるまい。治療を終えて予後を確認次第、自宅のベッドで目覚めてもらう。それで記憶が混乱して夢だったと認識するのが最良のパターンだが……」
「それも投与しますか?」
「なにを」
「海馬をいじっても良いかとお聞きしました」
「そこまでする必要もないだろう」
叶の記憶を操作しようという提案に、大尉は顔をしかめた。
「そういう処置は、好みではない」
「しかしまだ年端も行かないような少年ですが……彼はキアラ様に触れてしまいました」
「デジレ、そんなに不安なら“タグ”のインプラントを行えばいい」
「監視下に……。そうですね、一番レベルの低いタグを。そうしましょう」
顎を撫でたデジレは、我ながら自分勝手に決めると笑顔を彼に向けた。
こうして叶の処置は定まったが、いかんせんキアラと言う根深そうな機密的存在に触れてしまった以上は、軍の監視下に置かれることになる。
つまり国家に直接管理されるも同然となってしまったのであった。