005 生死の微睡(まどろ)み
脳震盪のような具合の悪さを感じて瞼を開いた所は、明らかに博物館の展示室よりも狭くて密度の高い人間の臭いがした。
「……ッ」
声を出そうとしたら口が開かない事に気がつく。
何故だろうと身を起こせば、今度は手足が思うように動かない。
ボンヤリとした頭は、時間と共に状況の整合性を増して行く。
口は猿轡。
足首と手首は拘束。
最悪なことに視界は目隠し。
「―――!」
これは尋常ではない事態である。
「叶」
少し離れた所からキアラの焦った声がした。
だからと言って、彼の心細さの支えにはなりそうになかった。
「叶、大丈夫ね、叶、ごめんなさい」
彼女が謝る理由が分からない。
それよりここは何処で、僕はどうしたんだと、口をモゴモゴさせる。
男がキアラを嗜めた。
「お静かになさってください」
野太く、低く、丁寧だが有無を“言わせたくないのだ”と言う声だった。
「……お黙りなさい、ジョット軍曹。彼をこうする必要があったのですか」
澄んだ声に怒気が篭っている。
「貴女が浅はかなのです。勝手に出て歩くからです」
「彼は関係ないでしょう」
「貴女と接触したのが原因ですよ、キアラ様」
「何も知らないのよ」
「御自分の立場をお考え下さい」
「立場って……あなたたちが勝手に決めたんじゃないの。今こんなこと言ったって始まらないけど、今までもずっと言ってきたわよね?」
どうしようもない格好で、叶は男とキアラの会話を聞いていた。
(キアラは、どこかの重要人物で一般人とはかけ離れた処にいたんだ……)
自分が遇した事態の割にあまり危機感が無い。
少女が自分には身近な存在ではなかった事に多少の失望感があったが、今はそれよりも、ちょっと痛い拘束具を取って欲しかった。
「彼と話がしたいわ。あれを外して」
「……構いませんが、無駄なお喋りは不要ですよ」
ガツンと冷たく固い床に踵が落とされた音がして、寝転がされていた叶が椅子に座る体勢に直された。ベンチのような台の上に横たえていたのである。
後頭部のパチンと言うベルトの金具が外れる音と共に、塞がれていた口が解放されたところで、苦しいわけではないが口で深呼吸を三回する。
「……僕は」
「本当にごめんなさい。何も知らないのに、こんなことになって―――お詫びのしようが無いわ……」
元気の無いキアラの声が間近で聴こえて、手の甲に体温を感じる。
「キアラ……君は大丈夫なんだ?」
「私は平気。痛かったら怒っていいわ。私が悪いんだもの……」
「と言うか、正直な話、何が起こったのかサッパリ分からなくて。でも―――詳しい話って、ダメっぽい…よね」
知覚できる僅かな情報からでも、この場の雰囲気は掴み取れる。
まして、こんなピリピリと全身に針が刺さりそうな空気の中だ。
軍曹と呼んだ名前からして、軍が関与している少女。
彼女の自由意志で外界を出歩くのは叶わないこと。
この振動と揺れからして、自分は何かの乗り物に乗っている。
そして、何処へ連れて行かれるかは不明。
(不味いことに首を突っ込んでしまったんだろうか……)
どう見ても大ごとなのではあるか、まだ叶にはピンと来ない。そしてキアラの思い出探しとは、そういうことだったのかと多少の符合を得た気になる。
「そうね……詳しい話は……」
「キアラ様」
叶に答えようとした言葉は遮られた。
「ジョット、別に難しい話をするわけじゃないのよ、邪魔をしないで」
「民間人を巻き込んでしまった始末は貴女に付けられるのですか」
「あなた達のやってることに比べたら、私は可愛いものじゃない。それとも―――」
「キアラ様が居なければ我々は確かに困りますが、これは既に慣例化しているも同然なのです。どうぞ心をお静かに」
「私は……私は別に困りやしないのに―――」
急に彼女のトーンが下がった。
またも存在感を失った叶が聞くその会話により、彼の中ではキアラの重要人物度がよりレベルアップされたのである。
だが、これはまだ内輪もめに過ぎない。
「あの……」
遠慮がちに口を差し挟んだのは、彼らの間の勢いある流れに逆らわないようにしてのことだ。
「キアラを責めないで下さい。僕もうっかりしてた事だし……その、僕は無事に家に帰れるんです?」
ジョット軍曹と思しき人物が答える。
「身体検査が必要だから、身柄の解放はまだだ。一緒に施設に行ってもらう」
抵抗する気もないが、充分に抵抗力を失わせる圧感があった。
どうしようもない。
今夜は家に帰れないんだな……
「だから、彼は何でもないのに」
食い下がろうとするキアラを、軍曹は一喝する。
「いい加減になさってください! アナタは、自覚がなさ過ぎる!」
体も大きく揺れたのだろう、ガチャガチャと重々しい金属のぶつかる音がする。
「度が過ぎるようであれば、貴女も彼のようにせねばなりません。出たいならば我々に申し付ければそれで良いのです」
少し気が付いた事がある。
本当に気のせいかもしれないのだが、キアラは叶に申し訳ないといいつつも、外界へ出ることに執着しているのだ。いつでも出れる立場なら、こっそりと出て歩くことなど必要ないはずであるのに、なぜ、彼女はそうしてまで出たいのだろうか。
よほど、彼女自身に大事な―――そう、思い出とやらが―――何か事件が起きているかも知れないのに。
こんなにもキアラが不自由な理由とはなんなのか……
一所懸命に頭を巡らすが、知り合って二日目、しかもこんな現実に直面すると、想像をはるかに超えた事態には対応できない。
戸惑いの中で精一杯考えているうちに、叶は自分の体に変調が出ていたのを感じ取った。
(……まずい……)
体の奥から、それは沈黙したまま蠢いていた。
(こんな時間帯になるとは思わなかった……)
昨日から強めの薬を飲んでいるので、反動も激しいのだろう。
己の体温が下がっていくのが分かる。体の芯に潜んでいた冷たいモンスターが外へ外へと広がり、手足には痺れが発生していた。
(予備も持ってきて無いし……、だいたい、この状態でどうやって)
いろんな意味で冷や汗がどっと出てくる。
背中が段々と丸くなっていく異常な様子に、キアラが気がついた。
「叶、どこか具合が悪いの」
隣に座って背中をさすってくれる。
誰も味方が居ない中では嫌いじゃない行為だ。しかし、
「……あ……薬……」
――僕は、病気だったんだ。
そんな現実もあることに気がついた。
――なんだか、ここ二日間はみんな幻のようにも思えるんだけど。
「薬って、何を飲んでるの? 携帯してないの?」
叶の異変に、ジョットが誰かを呼んだらしい。ドアが開く音がして人が入ってくると、手足の拘束具を外して横たえた。
目隠しだけは取ってくれなかった。
医師が居るというのも、なんだか良くできた話だ。
「IDはありますか」
「此処に」
ジョットが差し出したカードを端末に入れてスキャンした。ピピピと言う音で、叶の個人情報が出てくる。
「カルテ欄には数日後にワクチンの予定がある。代謝酵素強化剤を飲み始めたばかりですね。まだ安定してないのに、服用の時間を空け過ぎた症状と診れます」
「デジレ、叶を助けて」
「どういうわけですか、このような患者が―――ほんとに」脈を測って首で体温を確認した。「緊急事態ですが、いま手元に強化剤並みの薬が無いのです」
「どうなるの!」
「キアラ様、仮死状態に入れれるなら良いのですが、それを保証する道具もありません。このままだと体温が2時間以内に三十度を切って重度の低体温になってしまいます。施設まで戻れば何とか軽い症状のまま処置できます。予断を許さない状態ではありますが……」
手足の末梢神経の痺れに我慢している叶だったが、デジレの説明を聞いて覚悟を決めるしかないかと諦めかけた。
「じゃあ早く研究棟に行って頂戴。でも猶予がない場合に備えて、今やる方法はないの? 何かやる事は?」
キアラの声が焦っている。
でも、もしも間に合わないなら。
そんなに死ぬことが怖いとは思ってないよ……
常に死と隣り合わせという現実が顕在化する。
「―――方法はありますが、我々の世代では実施したことがありません。それに、彼の型に合うかどうか」
「教えて! 私に出来るのなら、私がやるから」
「もしかしたら彼を殺してしまうことになりかねません。キアラ様のお願いでもこれは無理ですよ」
「でも助かることもあるなら、やってもいいでしょ? 過去にさんざんやってるなら、データベースで症例を確認できるのに、見て! こうしてるうちに叶が」
ヒステリックに叫んだかと思うと、バタバタと何かをしている音と声、それから専門的な用語が飛び交ったかと思うと、叶の上着の袖が捲り上げられて冷たく尖ったものが皮膚に触れる。
「―――!」
それは薄い表皮を貫通して腕の中に刺さる針の感触だった。
何も、考える暇など無かった。