029 【最終話】 花、咲いて散る
身体が自律機能を緩慢に停止していく。肉体的生命の終わりを例えるには、それしか表現方法がないのかも知れない。
体内の奥から、もう駄目なんだと、ゆっくりとしたダルさが波紋のように外へと広がってくる。
体の芯が疲れ切って、呼吸が辛くなる。
空気が入っていかない。
心臓の鼓動が乱れる。
僅かな時間に、キアラはみるみると弱っていった。
胸が苦しい。
もうこのまま眠ってしまいたいのだと謂わんばかりに、眼を閉じて耐えている。
「―――」
ジョットが黙って彼らの前に立つ。
叶もどうしようもなくキアラを抱えていた。
「キアラ―――」
呼びかけに応じたのか、伏せていた睫毛がピクリと動いた。
「―――ジョット」
「はい」
「御礼を言うわ。今のうちに」
「……はい」
そしてまた苦しそうに呼吸をする。
叶のシャツを握り締めていた手に、力が入った。
「―――叶」
「キアラ」
「ごめんなさい……もう目が見えないの……真っ暗で……叶の顔を見たかったのに……」
閉じた眼から、一筋の涙が零れた。
「傍に居るって、約束したのに……」
「いいよ……僕も約束を守れなかったから―――」
そのとき、発作のようなショックが起こった。
「あっ……」
何事かと体勢を整えようとすると、恐らくは渾身の力を振り絞ってか、叶の腕を解いて身を翻す。
そのまま勢いで物陰に隠れた。「来ないで」
「キアラ」
そっちに行こうとした叶の肩を、ジョットが抑える。
行ってはいけない。
無言で制した。
何故。
何故なら、彼女がそれを望んでいるから。
別れの時間は容赦なくやってくる。
―――さよなら
物陰から水っぽくて耳障りの悪い音が流れてきた。
それでもジョットは叶を離さなかった。
暫くの間、気味の悪い、化け物が蠢いてるような音がしたかと思うと、乾いた音がカンカンと響いて、終わった。
その音を背中で受けていたジョットの手が下りる。
「キ……」
叶が事の終わった方へと歩く。
「キアラ……―――」
声が上ずって掠れる。
いまキアラが居たところに、あの薄空色の髪と、瞳で、風の中を振り返って……
手を掛けて、そこを見た。
そこには、水溜りと、白く光る人骨がバラバラに転がっていた。
いま着ていた服と、叶が買った赤い靴を残して。
それから、肌寒いからと着せていた叶のジャケット。
「―――」
ジャケットの袖を持つと、その下から頭蓋骨が覗く。
「―――キアラ」
ジャケットごと頭蓋骨を拾い上げた。
「―――キアラ」
もう一度、叶は名を呼んだ。
それ以上は出てこなかった。
涙が、顔中を濡らして。
“あなたの傍にって約束を―――”
いつでも居るじゃないか……
僕の中に……―――
いま気がついたんだよ……
★ ★ ★
「んんんっ?」
片手にインスタント食品を持ち、ヌードルを啜っていた真知村が素っ頓狂な声を出した。
「なんだ?」
「どうしました」
「見ろよ、数値が下がってきた」
報道のテレビと、軍からこっそり引っ張ってきているデータを見比べる。
テーブルモニターの上で踊っていた波形線は、徐々にその高さを落としてきていた。
「……これって、物質化エネルギーの低下ですよね」
「んだよ。て事は、バトリクさんはまたどっかに消えるってことです」
「えー……せっかく出てきたのに……」
至極残念そうなヤユックである。
「なんつうか、コッチは楽しく見てただけだが……あっちは厳戒態勢でずっと冷や汗掻いてたんよ」
フォークで差した先の画像では、もう少しでハッキリしそうだった『惑星α‐バトリク』が、また薄れてきていくように思えた。
「艦隊が巻き込まれなきゃいいんですけどね」
「ん、まぁ、一緒に巻き込まれて、あっちのさ、異次元にいってみるのって面白そうじゃんね。オレあそこに居たら突撃しそうだなぁ」
「でも奥さんどうするんです」
「あっ……」
陸と地が見えかけていたバトリクは、出てきたときと同様に段々と赤茶けた分厚い雲を纏った姿に戻っていった。
「―――それにしても」
真知村がフォークに刺して取り出した、シュリンプを指で摘まんで口に放り込みながら、ヤユックは言った。
「何しに出てきたんですかね」
真知村は、今までしたことがないような物凄く困った顔で返す。
「……わからん」
★ ★ ★
「ドクター・デジレ。一つ消えました」
「どれどれ」
安堵の空気が流れる司令室の片隅で、持ち込んだテーブルの上の周波数が一つ消えていた。
「消えた……か……」
四本の線が並んで美しいシンクロを見せていたのだが、それら全ては弱くなり始め、気がついたら一本が消滅したのだ。
「上手い具合に、タグから取得できていたのにな……」
「消えたのは、どなたなんですか?」
「間違いなく、キアラ様だよ」
「そうですか……」
「もうこのスタウト基地に戻ることは無い。我々は全力を上げてあの赤ん坊を育てねばなるまいな」
「腕が鳴ります。でも、どちらで亡くなったのです?」
「さあ……それは分からんな。ジョット軍曹か、誰かが戻るまで待とう」
「元気そうには見えてたのに、残念です」
「言ったろう。彼女は今年で二百三歳だった。寿命としてはギリギリだったのだから、仕方の無いこと。たぶん―――」
「たぶん」
「あのように不可思議な生命力を持っているからね。いよいよ肉体がもたないとなったときは……」
デジレは顎を撫でた。
「いや、文献でしか知らない事だが、突然、細胞が自殺すると聞いている。今頃は骨しか残らんだろう―――」
―――この騒々しい夜に、一つの命が終わりを告げた。
願いは虚しく散るしかない。
誰から授かった命かも知らずに、今日も人々は生きている。
生きること自体は魂の糧になる。
足跡は振り返られない。
何故ならあなたはその下に埋葬されるからだ。
そうして人と時間と記憶が積み重なっていく。
吹いた風ですら、思い出に残るのと言うのに……
―――叶
―――叶のことは、次の私が憶えているから―――
【女王の惑星 完】




