026 アッペリウを流れた時間
「アウッ」
悲鳴を上げてキアラが床に倒れこんだ。
「キアラぁ!」
ジョットの堅固な腕から転げ落ちたのだ。
髪を振り乱して床から見上げると、ジョットが銃を引き抜いて応戦している。
しかしなぜ列車内で銃撃戦が?
「……あ……」
落ちてきた何かが、キアラの頬を濡らす。
手の甲で拭うと、真っ赤な鮮血が滲んでいた。
私のじゃない、そう思ったところで叶がキアラを引き起こして立ててくれた。
「逃げよう」
「ジョットが……」
どこを撃たれたの。
肩を抱えられて隣の車両へと逃れるあいだも、キアラはジョットの出血している箇所を追う。
「ジョットが怪我を」
足から力が抜けそうになる。
「キアラ、立って。ジョット軍曹が逃げろって言ってくれたの、聞こえただろ」
そんなの聞こえてない。
だって、周りが真っ白で、とても静かだったもの―――
「このままだと、この列車に乗っている人にも迷惑かかってしまう。降りよう」
そうは言うものの、磁気浮上列車は海の上を走っているのだ。分かれたレールの先は、タワー・ステーションなのである。
ここで降りるといったら、海底に下りる駅しかない。
逃げられるところまで、逃げるしかない―――!
「これは、どういうことだ!」
ジョットは通信機のスイッチをオンにしたまま怒鳴った。
もちろん、ダニロバに分かるようにである。
警官のグレーの制服を着てはいるが、雰囲気はどう見ても警官ではない。
どういう部隊編成できたのか、指揮系統の違う連中がキアラを追っている。
ダニロバは銃を抜くなと言った。
これがどうだ、いまは奴らが先に手を上げているじゃないか。
「くっ……」
広いスタウト基地のこと、いくらジョットでもどのような連中が居るのか、全容は分からないのだ。
いま一発を撃って牽制すると、座席に隠れて被弾したところを確認する。脇腹をかすった衝撃で、どこかにぶつかったのだ。銃創は焦げているはずなのに、ぶつけたせいで肉が抉れ血がにじみ出た。
この銃撃戦で二人は倒したはずだ。
なぜここで殺し合いになったのだ?
銃を構えたまま座席から少し顔を挙げ、透明な車内のドア越しに、キアラと叶が前の車両に移ったのが見える。
(次は……海底行きの駅か……)
スパイ・アイを探したが、居ない。犠牲の一つになったようだ。
磁気浮上列車がスピードを落とし始め、ゆっくりとストレスなく駅構内へと滑り込む。
車両のドアと構内のドアが同時に開いた。
すかさずジョットも起き上がって、牽制の一発を撃つ。
手加減をしない連中がそこで牙をむいているのだから、気の抜きようがない。
「早く!」
もつれそうになる足で、叶とキアラが海底へ繋がるエレベータを目指す。
これはエレベータと言うよりも、観光用の垂直移動ゴンドラと呼んだほうが的確だろう。
長い透明な筒の中を、同様に殆どがガラス状のゴンドラが上下するのだ。
少なくとも十人は乗り込める広さに、二人が飛び乗る。
複数の筋が真っ暗な海底へと延びていて、暗黒がいまにも彼らを飲み込みそうに口を開けて待っているようだった。
「海底のレールに乗り換えれば、そっちでも行けるよ」
ゼイゼイと苦しい息の中で、叶は提案する。
「行くって、何処に行くの」
「あ……」
そういえば、である。
無我夢中で、視界に入っていたタワー・ステーションを行き先にしていた。
だがそこまで行って、そこからはどうするのか。
「それから……」
叶はポケットからカードケースを取り出す。
中から引っ張ってみたのは、先日父親から約束のプレゼントだと言って貰った、宇宙船搭乗のプリペイドだった。
「これで、宇宙には行けるよ」
彼の精一杯の世界で、これしか解決策は思いつかなかった。
「宇宙に行けるのね、叶は」
「君は行かないの?」
「私は―――」
深く潜り込んでいくゴンドラの中で、改めて悲しそうにする。
どうして、君はそんなに手の届かないような顔をするんだろう―――
深海への道程で、濃密な静寂が彼らを圧し包んで行く。
そこで叶も一気に気が落ち込みそうになった。
「あのさ……キアラは死に場所を探してるんだろ?」
「―――」
「ワクチンとか、キアラが居ないと困るって」
「……―――」
「僕もそれで助かったんだよね?」
「……」
「よく分からないけど、ジョット軍曹とかが必死でキアラを探してるじゃないか。こんなに大事にされてて、こんな危険を冒すのは……」
そこまでで、叶はキアラの張り詰めた空気に止まった。
「―――私が……私が居たところに帰るのが、そんなにいけないの……」
「―――え」
「私がここを出て、あそこに帰ってはいけないと言うの?」
「待ってよ、帰るって……それじゃ思い出って」
「帰るだけなのよ。呼んだから帰るって。だって私はずっとここに一人だったんだもの。今の私も、前の私も、その前も! 私はもうすぐここから居なくなるから、その前に帰っておいでって。ねぇ、叶は帰るところあるでしょ? ここは私の故郷じゃないんだもの、帰ってもいいはずよね」
懇願するように叶の胸元にしがみ付いた。
「だから、“あれ”も迎えに出てくるからって」
混乱したままその肩を抱くと、叶はその空色の瞳を見つめた。
「キアラ。よく分からないんだ。君が何を言ってるのか、分からないんだ。でも」
背中に手を回す。
「今の僕じゃ駄目なのは……判るような気がする……」
現状に対する敗北宣言である。
それだけではない。真相を知らなくても、ジョットも、いま追ってくる連中も、全てが彼女の前には敵わないのだと思ったのだ。
興奮気味だったキアラが、そこでハッとすると、静かに叶の後ろへ腕を回した。
「―――ごめんなさい……叶は約束を守ってくれようとしたのに―――私は傍にいるって約束したのに……」
深く日の光も許さないほどの藍色の海が、二人を静かに見守っていた。時折、驚いたように現れる深海魚が、エレベータ円筒内を走る一筋の灯りに引き寄せられて去っていく。
「―――叶のワクチンは、私の血液なの」
決心したように、叶の胸で声を絞り出した。
「血液って言うと、あのトラックの中で」
「そう……緊急を要したときには、時々あの手を使うわ」
「じゃあ、キアラは僕の恩人じゃないか」
「でも危険な賭けなんだわ。生ワクチンもいいところだから、本人の型も調べてないものね、時々合わないで死ぬ人もいたから、叶には合って、良かった……」
「でも、どうして君の血液がワクチンになるんだ」
「―――」
「無理なら、いいけど―――」
少しのあいだ静寂に任せていたが、やがてキアラは叶を押して体を離した。
「よく聞いて」
強い声だった。
「叶に教えてあげる。ワクチンの秘密―――」
一呼吸おいた。
「私の年齢は、今年で二百三歳」
―――広大な宇宙に、居てもおかしくない年齢ではある。
まれに一千年は生きる種族もあるそうだから、驚くことではない。
ただ―――
ただ、このアッペリウ星系では、そう容易に当て嵌まらない寿命であった。
「ホントに」
「ええ、そうよ。私はこのアッペリウ星系標準時間で、間違いなく二百三歳。叶よりも百八十歳以上は年上になるわ……」
少女の姿をした、二百三歳の年上の女性は断言した。
「でも、普通は外見も」
「―――私は、死ぬまでこの姿だから……」
「その……そのあいだはずっと基地に?」
「幽閉に近いわ……仕方の無いことだけれど……。でも子供も生まれたし、もう役目も終わったと思ってるから」
「子供が?!」
「お願い。変な目で見ないで。―――子供と言っても、クローンのようなものよ……。あの子も、これから二百年以上の長い人生をカゴの鳥で」
「基地って……差し支えなければ、何をしてるか……」
「あそこでは―――ワクチンを作っているの。そう、一人ひとりに対応したワクチンを作る工場。あの工場に世話にならない人は、殆ど居ないってくらい。でもそのワクチンの原材料がなんなのか、あなたには想像できて?」
叶は首を横に振る。
「ワクチンは特定のウィルスに、改変した遺伝子を載せて病気の人に投与するわ。そうすると遺伝子をもったウィルスが増殖して人間に感染する。人間の遺伝子を持ってるんだもの、感染力は強力なの。やがてその遺伝子が、その体を乗っ取って晴れて健康体に―――と言う話。その遺伝子の原材料が、私の基幹細胞と卵子……」