025 重なる、ふたり
―――タウン
相変わらずキアラは果物しか口にしない。
立ち寄ったカフェで彼女は果物、叶はアイスティーをテイクアウトした。
「―――冷たいの、飲めるのね」
「うん。お陰でね」
その理由は、敢えて言いはしない。
あの日の夜のことは、今の二人に関係が無いからだ。
「それでさ、どうしようか。どこを探したらあるのかな」
行く場所を間違えても楽しいとでも言うように、叶は笑って聞いた。しかしキアラは表情が曇ってしまった。その厚意を受け容れるのは難しい、とでも言うように。
「―――叶、わたしは―――」
そう言いかけて、一瞬で硬直する。
キアラの鋭い感覚が異様な空気を感じ取ったのだろう。叶の腕を掴んで人ごみの中を走り出したのである。
「キアラ?」
「しぃっ。来たわ」
「軍曹が?」
疑問を投げかける暇は無さそうだった。
社会的に非力な二人の逃避行は心許ない。
だがそれを感じさせない愉しさのようなものがある。
多少なりとも、これは叶にとっては全力疾走の、青春の思い出になるのは間違いなかった。
それが、なぜこうして逃げているのか確たる理由が無くても。
「磁気浮上列車に乗ろう」
まだ追跡者の姿は見ていないが、耳元に小さく風を切る音は聞こえる。
「これ、交わせるかしら」
指で上を指し、邪魔者の追尾を振り切れるか考えてみた。
「乗るときに、だまし討ちできればね」
街の至る所に磁気浮上列車の駅がある。
いま走っている場所からは、このままで五、六分と言うところだろう。
「間に合えよ……間に合うんだ」
そのうちに複数の足音が否が応でも聞こえてきた。
高さ十メートルほどの高さに陸橋が見える。磁気浮上列車のレールウェイだ。
「早く!」
人影の無い駅舎の階段を駆け上がって、乗り場のドア前までたどり着く。
磁気浮上列車の風を切る切っ先が近づいてくるのが見えた。
「来た」
「もうちょっと待って」
さすがに焦りが襲う。下から硬い音を鳴り響かせるものが昇ってくる。
カーキ色の軍服が姿を現し、キアラと叶を目指して真っ直ぐに距離を縮めてきた。
「キアラ様」
押し殺したような声で、中の一人が名を呼ぶ。
「お戻り下さい。キアラ様」
叶はその聞き覚えのある声で、初めてジョットの顔を認識した。
生真面目そうな男だった。
キアラが叶の前に出て言う。
「ジョット、私は戻らない」
自分がどれだけ大事にされ、危害が加えられない人物であるかを利用して、叶の盾となる。
「どうしても」大股でジョットが歩を詰める。「戻っていただかなくてはならないのです」
そういう彼の言葉が妙に悲痛だった。
それに応えるキアラも、精一杯の抵抗を見せる。
「私は、戻れなくなったのよ」
ジョットの後ろに控える数人の兵士が手を構えて退路を塞ぐ。
「キアラ様―――」
「来るな、ジョット」
「我々を見捨てるのですか。私にそう言わせるのですか」
すがるような物言いは、何故なのだろう。
キアラの背中が、なにか壮絶な悲哀に満ちた、感情の炎を立ち昇らせたように見えた。
熱くて、冷たい―――
叶はそう感じた。
「聞きなさい、私は死ぬのよ。お前は分かっているでしょう。私に恥を掻かせないで」
「死に急ぐことはありません。お願いですから、私の手を取ってください」
ジリジリと時間も距離も縮まっていった。
いつの間にか磁気浮上列車が叶のすぐ後ろで停まり、シューっと音を立ててドアが開く。
「キアラ。乗るよ」
囁いてキアラの腕を強く掴んだ。
『間も無く発車いたします。ドアが閉まりますのでお気をつけ下さい』
無機質なアナウンスが、無遠慮に響く。
列車の中には酔っ払いが数えるほどしか乗って居なかった。
ドアが開くときと同じ音で閉じようとした。
「それっ!」
叶は自分の体ごとキアラを引きずり込む。
スパイ・アイが一緒に飛び込みそこなって、一つがガツンとぶつかり車体の下に転げ落ちていった。
入ったときの勢いのまま、なるべく広く見渡せる車両の真ん中へと駆け込んだのはいいが、はっと後ろを見るとジョットが一人立っているではないか。一つ後ろのドアから乗ったらしい。
その本気加減を悟って、叶もようやく事態の重大さを肌身で覚えた。
「何が何でも、一緒に戻っていただかねばなりません。でなければ……」
「しつこいわ。私は死ぬだけなのよ。戻ってもね、死ぬだけよ」
まてよ。そうしてキアラを庇おうと動く前に、ジョットが左手でキアラの手首を掴んでしまっていた。
「―――!」
「これ以上は暴れないで下さい。大人しくしてくださらないと、こちらの手を使わなければならないのです」
右手を振りかざす。
「キアラ!」
叶がジョットの右腕に喰らいつく。
「叶、逃げて」
声がかすれた。
「このうっ」
左腕でジョットの右腕にしがみ付き、右腕でキアラを掴む手を振りほどこうと必死に体を伸ばした。
「……」
ジョットは叶を一瞥すると、右腕に力をこめて下にブンと振り下ろす。
「うっ!」
ずるっとそのまま床に落ちて転がった。
「叶!」
どうみても勝負はついている。
列車はいつのまにか走り出していた。
そういえば、行き先を決めていない。
「この方は、どうしても我々が保護せねばならない方だ。君のような少年がでしゃばるものではない」
そしてキアラを抱え込むと、ゆっくりと後退しドアの前に行こうとする。
「離せよ。本人が死ぬときくらい自由にしろって言ってるんだろ!」
若い感情に火がついたのだろう。いまはそれが正義だからだ。
しかし自分で言ってから、急に不安になったのだ。
死ぬって―――
誰が―――?
「甚だ傲慢な事を申し上げるのだが、キアラ様の全ては我々が保護せねばならないのだ。理解しろ」
「何だよ理解って! わけの判らないことばかり言って! 最後の願いも聞いてやれないような了見の狭い保護者なんて、それじゃただの拉致監禁の犯罪者じゃないか!」
ジョットの太い腕の中で、キアラが青白い顔のまま動けずにいた。
「いいだろう、少年。どれだけキアラ様が居なければ困るのか」
「ジョット! お前は言わなくていいわ!」
鋭く叫ぶが、ジョットが対峙しているのは叶である。声など届かない。
「お前がいま生きてここに居るのは、キアラ様のお陰だからだ」
「?!」
「それだけではない。アッペリウ星系の人類が恩恵を受けている」
一瞬、叶の中で情報が錯綜した。
「この私も、お前の親も、友人も、殆どの人間は、お前と同じに生かされている」
「そんな事言ったって……そんな、恩恵って……」
思い当たる節はある。
其れしかないのだ。
しかし、それがどういうことか、そんな事なんて分かりようも無いだろう。
「お前は、この間の治療で完治するだろうな」
キアラに視線を移した。
少女が悲しそうに叶を見ている。
「……キアラ。それって……」
それ以上の言葉が思い浮かばない。
あの薄幸そうな少女とワクチンとが、どういう線で繋がるか見えないからだ。
「ジョット、それ以上は言わないほうがいいわ……叶を困らせないで。困ってる……」
力なくうなだれる。
その言い方が、先ほど抑えて隠したばかりの、叶に対する感情が疼き始める。
(この方が選んだのは、この少年だと言うか―――)
筋肉質な腕に、感情のエネルギーが加わった。
私は、こんなにも貴女を大切にしてきたと言うのに―――
この今にも散りそうなほどたおやかな蒼くて美しい花を―――
叶のグレーの瞳とのあいだに、火花がチリと飛んだ。
その瞬間、ジョットの後ろから光線が走った。