021 静寂の生命(いのち)
叶―――
声は届かなかったが、そう呼ぶのは聞こえた。
あの不思議な少女が、またそこに立っていたのだ。
来たわ
距離は関係なく、彼女の顔がハッキリと微笑むのが見える。
「キアラ」
叫ぶでもなく、喜びを満面に出すでもなく、叶は気持ちのまま階段を駆け下りた。「今日は約束してないよ」
両腕を広げて互いを胸に抱き合うと、不思議と二人の鼓動が重なった。
「―――途中で思い出したの」
「途中って」
「分からない。途中は途中よ。でも思い出したから、来たら会えると思って、呼んだら来ると思って」
「僕を呼んだのは君だっての、知ってたよ」
腕に力が篭ったが、以前よりも体が細くなったのに気がつき、壊れないように解く。
「痩せた、よね」語尾が掠れる。
「だって病気なんだもの」キアラは叶の胸から離れなかった。
「初めて会ったときは“病気じゃない”って」
「ごめんなさい。病気と言えば病気だけど……ホントはそうじゃなくて……」
言い難そうにしたので、それ以上の追求はやめる。
「それより、みんな怒ってない?」
「みんなって?」
「基地から出てきたんだよね? ジョット軍曹……とか、すごく心配そうにしてたから」
「そんなの知らない……。ジョットだって意地悪をするのよ。私を出してくれない」
「でも彼が一番キアラの事を大事にしてる雰囲気だったよ。目隠ししてると、そういうの良く分かる」
そこでキアラが酷く迷ったようなように言うのだ。
「私が出たいワケじゃないのに、私は出てきてしまう。……ああ、でもけして出たくないわけじゃない……だって、わたし……」
いまさら自分で自分に戸惑ったようなことを言い、混乱しそうになったので、叶はキアラの肩を掴んであの日の続きを言い聞かせる。
「そのための思い出を探してたんだよね」
「! あぁ、そう……そうなの」
「こないだのさ、続きでもしようかと」
夜更けの病院前で、再会の喜びに浸るにはいささか場違いである。
だからと言ってこんな非常識な時間帯に、何をするべきなのかあまりに目的が曖昧であった。
「とりあえず、此処を出て行こうよ。どこかカフェで話が出来そう?」
促されたキアラも叶の隣で歩き始めた。
「その格好じゃ寒いって」
叶はジャケットを脱ぐとキアラの肩に掛け、彼女はそうする彼の瞳をじっと見つめた。
心なしか熱を帯びて、叶の心の敏感な奥底を刺激する。
「―――あとで、詳しい話をするわ」
「いいよ。なんかのきっかけになれば、思い出も探しやすいかもしれないし、約束だからね」
「そんな約束なんて……」
今更ではある。
何も知らない少年を巻き込んでしまっていた後悔の念が、心陰の奥からキアラをそっと撫でる。彼の幸せになるべき人生をゆがめてはいないだろうか。
圧倒的な権力を背後に持つ彼女を、少年は恐れず正体も知らないのに近づいてきた。
彼の心を囚えてしまったのは何なのだろう。
「……その靴…」
煌々と照らされる病院の広大な敷地を二人は歩く。
「うん」
「履いてくれてたんだね」
「大事な宝物だから仕舞ってた。時々出して眺めて、履いたら自由な気が」
「自由?」
少し、口にしすぎたかもしれない。叶が敏感に反応する。
「あ……病気…から」
「なんか、お呪いみたいだね。赤い靴で元気になれそう?」
「赤い色は元気になるもの」
「そうかー…服も赤いと顔色がよく見えるよ」
「わたしの顔、そんなに青く見えるのかな」
「僕の同級生より、健康そうには」
明るいとは言いがたい病院前の広場で、彼らだけの会話を紡ぐ。
「タクシーを呼ぼう」
叶がそう言うとキアラがそれを制した。
「乗ってきたスクートがあるんだけど……」広場の周りに生い茂る木々の中を指差す。
「僕にも乗れる?」
「簡単な操作だから平気。それに、カード使うとトレースされそう」
何気ないようでいて重要な言葉に、叶はハッとした。
そこまで自分は考えていなかったのだ。自分たちの、今現在置かれている状況に。
ついこの間、彼女が基地を出てきた時も追跡されてたじゃないか……
「……あのさ」
「なぁに」
「追いかけてきてるよね?」
「ジョットとか?」小さく口を尖らせてキアラは答えた。
「あの時も物凄い大事な勢いだった。発作起きてなくても生きて帰れるかどうか、ホントは不安だったんだよ」
「……ゴメン」
「そういう超VIPな人間が、こうしてまた出歩いているってのは」
そこでキアラが叶の腕を強く掴む。
「本当に、ごめんなさい。あの時傍にいるからって自分で言っておきながら―――」
「え、あ……そういう話じゃなくて……なんか、その、とても重要な気がしてるから…その」
確かな言葉にならない、幼さを伴う感覚での会話。もどかしさが切ない。
「どうしたらいいか判らないんだ」
正直な帰結に至った。
キアラは叶の手にそっと触れ、それから手を握る。
危険な目に遭わせている事実をどうしようか迷っている訳ではないのが、キアラの真実であった。
意図はしていない。しかしこの衝動はどうにもならない。彼に全てを話すべきではあろう。時間が間に合えば……。
そして闇に浮かぶ白くて大きな威厳を持った建物を振り返る。
「病院に来なくても良い日が来たらいいね」
握った手に、更に力がこもった。
「キアラも元気になろう」
叶は蒼いゆらめきを宿したキアラの瞳を見返した。
「スクート、運転して。私は後ろに乗るから」
なんとはなしに促されて跨ると、モーターが静かな低音を響かせる。
叶の体に腕を回しキアラは行き先を告げた。
「街に行って、この間の続きをしたいの」
「……博物館じゃなくて、街?」
「街の雑踏で一息ついたら少し考えがまとまるかと思う」
「そしたら……お腹は空いてないの?」
「ゆっくりできたら、それに越したことはないけれど……」
今頃基地では血眼になってキアラを探していることだろう。悠長なことはしていられないが、今少しこの伸びやかな時間を共有したい。
ジョットは分かってくれるだろうか。
「……街を、ゆっくり通りすぎるの、いいでしょ? それから行き先をまた言うわ」
「安全とは思えないな……」
重い空気が二人の背に迫ろうと圧してくるのを振り切るかのように、スクートは少々焦り気味にスタートした。
街の光を目指して病院を覆うかのような森を抜けだそうとする様は、キアラの「城」脱出と少しも変わらないものである。
どうしたら自分の行き先が見つかるのだろう。当てずっぽうにデタラメに叶を煽って引きずり回して。
吐き気を催すような迷いが生じる。
急いてるあまりに何も分からなくなりそうであった。
「大丈夫なの?」
腹に回したキアラの腕の力を微妙に感じ取って、叶が訊ねる。
「平気。気分が悪くなったら言うから」
「その時は何処かで休むからね」
無言で頷く。
静かな森の闇の合間に、街の灯がキラキラと光った。
スクートは街まで安全運転とは言えないスピードで走っているのに、ゆっくりと煌めきが穏やかに近づいてきている。
優雅だ、とキアラは思った。
こんなに深く眠れそうな夜は、そうそう無いだろう。
夢は見なくてもいい。醒めたら困るから。
夜風が耳元を通り過ぎ、その遠くから叶の鼓動が聴こえて来る。―――生きている、証拠。
叶に、逢えて良かった――――
空色の瞳から、街の光と同じものが零れた。