020 赤い靴
遠くで唄うような呼び声がしたと、思っていた。
だから、ソレを知っていたから、懐かしいと思ったのだ。
思い出のあるところに帰るのは、別に不思議なことではない。
―――だって、私は、そこに居たんだから……
赤い靴を履いて、暗闇を迷いもせずに前進するのは、件の逃亡者キアラである。
暗いから色は分かりにくいが、真っ赤な靴はピカピカに磨き上げられて、今しがた出来たばかりの新品のようであった。
と言っても、そんなに履けた時間は極僅かだったが。
いつものコットンの白いワンピースを着て、靴を抱えて、彼女を幽閉する『城』を出た。
脱走、と言う意識など無い。キアラにとっては、普通に出て行くだけの話なのだから。
眠っている頭の奥で唄声がする。
体力も無いのに、体が勝手にふわっと起き上がる感じで、そっとベッドを降りる。
目は開いていても何処か虚ろである。
ベッドのサイドボードの扉を開けると、中から箱を取り出して靴を手に取った。
そのまま胸に靴を抱えると廊下を足音も無く歩き、ゲートの番人、サイボーグ犬、アンドロイドの目の前を何事も無く素通りした。
彼らも何事も無く、キアラが視界に入ってないように振舞った。
その調子で屋外へと、そして基地の外まで、幾つものゲートを同じ調子で通り抜けたのである。
誰も彼女に声を掛けたものはいない。誰も彼女と視線を合わせたものも居ない。
タウンまでの長い距離を、途中失敬してきた小さなスクートで飛ばした。
魔物が出そうな深い森の中、軍用道路を伝って昇ってきた風が、彼女の髪をさらに巻き上げる。
ゴォと唸りをあげて押し留める風に、真正面から切り込んで突っ込んで行った。
「―――」
空を見上げた顔に表情は無い。それがまるで彼女の本性であるかのように。
誰も居ないからと言う理由に依らず、それ以上にキアラは終始無言であったが、タウンの明かりが見えてくる頃になると自然と唇に微少が浮かんだ。
その笑みと共に、まるで自我を取り戻したとでも言うのか、急に彼女の瞳に感情の色が浮かび上がってきたのである。
誰かがキアラを追いかけてくるだろう。
それはいつものことだ。
人の目の無いところには居られないからだ。
「……来たわ」
少し肌寒い夜だったが、気にはしていないようである。
森が切れる所は、街はずれ。
道路が大きくカーブしてジャンクションを駆け上がる。
ここでキアラは自分の心が急くのに気がついた。
「―――そんな人がいたわね……」
思い出したのは知り合って間もない少年の横顔。
「―――叶に会ってもいいのかな……」
いったい何をしに出てきたのか、キアラの双眸にはこれまでにない意思、というより後戻りできない何かが宿っている。
生きとし生けるものの本能。
それから、底の見えない深淵から、出口を求めて湧き上がる冷たくて熱い鼓動。
今夜こそが本当、と思った。
★ ★ ★
ふと顔を上げて、見回す。当然部屋には誰も居ないはずである。
そこには叶の沈黙だけが流れていった。
「―――」
だれ、と聞こうとしたが、声にならなかった。
いつも通りの生活で、いつもどおりに夕食後の時間である。まだ寝るには早い時間だったので、自室に篭って勉強をしていた。
空気の流れの匂いを嗅ごうとするかのように、鼻を上向きにし、知っているけれど思い出せないといった思考と感情が綯い交ぜになった表情をする。
ひと呼吸おいて、もう一度「だれ」と言うのを試みる。
気のせいにしたいが、それだけに留まらない存在感が叶目掛けて圧倒してくるのだ。
ダウンライトに照らされた自分の影が、自分勝手に動き出しそうに思える。
「まさかな……」
否定しようとした。
しかし拒絶できない。
「だって……彼女は……そういう人じゃないし」
机に向き直って、椅子を引き戻そうとした。
その途端、誰かが叶の心臓を鷲掴みにしてグイと引っ張ったような強引さを感じたのである。
「うわっ」
驚いた叶の体が椅子から落ちた。
しりもちをついた衝撃のせいかどうか、叶は鮮明なイメージを脳裏に認識する。
「キアラだ!」
叫んでから口を手で塞ぐ。
「あ……いや、なんでキアラが」
まさかね、まさかな。
叶の中で、キアラが今にも泣きそうに悲しい目をした。
なんだよ、泣くなよ……
彼女を宥めながら床からよいしょと立つと、壁に掛けてあったジャケットを羽織り、カードケースをポケットにねじ込む。
寝る直前だった母親に、ちょっと出かけると言って家を飛び出した。
高速エレベータを目指す途中、近所の人がちょうどタクシーを降りるところだったので、入れ替わりに乗せてもらう。
『行き先、またはコードを入力下さい』
端末の案内も待たずにスロットにカードを差し込んで、ナビに出ている地図の一箇所をタッチした。
迷うことなく選んだのは、病院。
あの日以来、諦めてはいたが会いたかった気持ちに偽りは無い。
謎に包まれた彼女の秘密に関心が無いわけではない。
ただ、今はなんの脈絡もなく「会おう!」の衝動をもって行こうとしているのだ。
理由は要らないだろう。それが彼らの世界だからだ。
煌々とした夜の世界を駆けていく。
夜間の道路は空いているはずだから、スピードも遠慮なく上がっているはずなのに、時間軸までその速さに伴っている気がした。
期待がもどかしさを突き上げる。
いつも行っている病院が、こんな時にワケもなく小憎らしい。
(―――いるんだろ?)
今度は何をしに?
まだ思い出を探しているんだろうか?
赤い靴―――
その靴を履いて―――
到着して転びそうにタクシーを降りた。
病棟の照明は点いているが、玄関ホールは小さな明かりが頼りなく照らしているだけで、昼の騒がしさは無い。銀色の建物が暗く沈黙していた。
しかしそんな事は叶にはどうでもいいことである。
外灯が両脇と中央に並んで立つ、いつもの階段にやってきた。
一番下の段から上を見上げる。
あの日、ここで出会ってから一ヶ月近くが経った。
―――薄空色の髪と瞳が、太陽の下で風に溶け込んだ少女が振り返る
緊張した面持ちで一段一段を踏みしめていくが、ヒト一人、どの影も見当たらなかった。
(来てしまったのに)
ここで良いはずなんだと言い聞かせた。
……時間の約束はしてないしね。
落胆はしていない。
自信と言うほどに確かな繋がりを感じているからだ。
前よりも明らかに体力のある足取りで、階段の頂上に辿り着いた。
「……いないか……」
それならいいんだ。
そこに居なければ、振り返ればいい。
そしたら見えるんだから。
―――ゆっくりと首から右へ、そして体を捻って、背にしていた階段を振り返った。
眼下には、森林公園が真っ黒な海となって、タウンと病院のあいだを隔てている。
その黒い海の中に、叶は認めた。
その人が―――
赤い靴を履いて……
「キアラ」