016 渇望
「聞いたかね」
「何を」
「モールレが“問題無い”と」
「脱走の何処が問題無いと言うんだ」
「スタウト基地は静かだよ」
「平静を装っているのではないのか」
「“自然”には手も足も出ないのだから、普通では?」
「普通、と言われては堪らんな。事の原初から我々には神のようなものではある」
「その『神』に我々の命が握られている」
「『神』ならば逆らうことは出きんな」
「我々は反逆者なのか」
「……人間は科学の勝利を謳うではないか」
「アレを基地に閉じ込めて、その恩恵をありがたがっていることが勝利と」
「ヤノ人が生きる運命とすれば、限られた範囲内での勝利だろう。しかしいつまで維持できるのかな?」
「―――よしたまえ。我々は科学者ではない。アレが脱走しないように対処せねばならん」
「基地内のありとあらゆるものが無効化されていると言うのに、何か手があるのか」
「アッペリウの至宝は、今のところ奪われる心配はない。しかし彼女が居るという事実が知れ渡り、我々の肉体生命についての科学技術が漏洩することがあれば、他星系からの『干渉』は免れない」
「いつまでも隠匿できると思うのか」
「七百年は隠し通せている」
「これから先を心配しているのだが」
「―――我々は、未来に何を残せると思うかね。私には今のところ『アレ』しか思いつかぬ」
「最も、我々にとっての一番の恐怖とは、奪いとった『アレ』が、逆に奪われることだ。そのためにも、今回のような出奔騒動はぜひとも収めねばならない。場合によっては、直接触れる事も禁じ得ない」
「なんという大それた決意。触れれるのか? 何か手段でもあるのか?」
「七百年を無駄にしていたわけではありませんよ。彼女の、一つも漏らさず」
「さぁ……どうかな……」
◇ ◇ ◇
―――私は、きっと飛べる―――
天気は穏やかだったのだ。
ここ数ヶ月、優れない体調と気分は、この天候と共にだいぶ晴れたような気がした。
触れれば溶けてしまいそうに、どんな物質よりも軽い羽毛のように、心は昂揚していた。
叶たちが住むタウンとは比べ物にならない、圧倒的に広い森に囲まれて、深呼吸をする。胸の奥深く取り込まれた新鮮な空気が、体内を浄化していく。
これだけでも多少の自由を得た気になった。
何日ぶりかに外へ出たけれど、今日は小動物の一切を見ていない。
人工ではない小川に足を突っ込んで、水を蹴る。
飛沫が一瞬の輝石になって散った。
誰にも来るなと言ったので、少なくとも彼女の視界には人影が映らない。
―――見てても構いやしないけど
両手を上に掲げて空を仰ぐ。
風が彼女の周りを取り囲むように吹き渡ったので、薄空色の髪は今日の空よりも透明になって溶け込み、乱れた。
―――私は……自由じゃなくても
眼を閉じる。
身体の深奥が不規則に動いた。
呼吸が苦しくなり、抗いようの無い脱力感が中から広がった。
―――戻りたいだけなのに……
ゆっくりと意識が空に吸い込まれていく。
―――叶
丈の長い草花が柔らかく彼女の体を包み込んだ。
―――連れて行って……
スタウト基地、昼過ぎ。
キアラが倒れた、との報でデジレとジョットが駆けつける。
いつもジョットたちが通される廊下と部屋を駆け抜けると、彼女の寝室にはデジレだけが入っていった。
ジョットは寝室手前の控えに留まる。
「―――どうして気が付かなかったのだ」
ベッドに横たわるキアラを目にすると、デジレは傍らの女士官を小声で叱責した。
「申し訳ありません。庭に出て一人になりたいと言われましたので」
「体がアレなのは分かっているはずだが」
それ以上は責めても仕方が無い。
衛生士官が機材を備え付けたボックスを押して入ってきたので、診断に取り掛かることにする。
キアラの上にスキャナパネルを展開し、ベッド下のスイッチを入れると微かにブーンと音を出して、皮膚下の様子を映し出した。
それを一瞥しただけで「……特に異常は見当たらないが…胃腸に物が入っていないではないか…」と判断したものの、このところのキアラは体調が優れないばかりか、食事も受け付けなくなってしまい、どう対処してよいか困惑してしまう。
何しろ、彼女にはヘタに薬を使われないのだから。
「こう言うときに困る」
顎を撫でて嘯く。「『自然』と言うのはな」
衛生士官は、黙って指示を待っていた。
「仕方あるまい。果汁をチューブで流し込むしかないだろう」
そう言って掌でキアラの頬を撫でたとき、彼女の瞳と視線が合った。
「……無駄な事をしたわね」
顔に似合わぬ刺を含ませデジレに言い放つ。
「ムダではありませんよ。養生せねばなりません」
「―――もう私には使い道が無いの分かっているでしょうし、私も自分を無用の長物と思ってるから温情は要らないと言ってるのよ。前回も、そのまた前も、ずっとそうだったでしょうに」
「最期を悟られておいでですか」
「お互いに知っているはずよね、いまさら」
女性士官に果物を持ってくるように言いつけると、デジレは部屋に居た他の者たちを下がらせ、最期の一人が出て行くのを見届けてから、改めてキアラに向き合う。
「……さて、キアラ様。それに関して一つお聞きしたいのですよ」
彼女の細い手首を握り締めた。
「―――答えたくないわ」
「では質問を止めましょう。助言を戴きたいのです」
「まだ研究できてないなんて無能すぎなくて?」
キアラも握られた手首の拳に力をこめる。
「キアラ様、初めてなのですよ? 記録にない事が起きているのに、ご本人の口で喋っていただくしかないじゃないですか」
「いったい、何の話をしているの、デジレ」
鼻から深く息を吸い込んで、慎重に言葉を選んで吐き出す。
「貴女と、あの“赤ん坊”から、同じ周波数が出ているのは何故なのか、ご意見があれば窺いたいのです」
しかしキアラは枕の上で僅かに首を動かすと、デジレを凝視して言うのである。
「〝アレ〟は、貴方達が責任をもって育てることになっているでしょう、私には関係のないことだと思うのよ? アレは、私の子供ではない」
「関係ない、と仰る。毎日毎日、二人同時に周波数を発振する“親子”ってありますか?」
「ベッド下にまた変な物を取り付けていたのね。……“親子”なら別に良いことではないの」キアラの視線が険しくなった。
「私が生んだ子なんだから」
「三年も懐胎してようやく産んでいただいた、我が人類の宝物ですよ。しかしそんな事は理由になりません。あなた方親子と、この母星ヤノと同じと言うのはどう説明できると言うのです。―――共振波がね」
この男。
苛立ちが彼女のこめかみにギリと来た。
「私には何ともいえないわ。だって私も知らないんだもの。お前がどう調べようと知ったことではない」
自分でも知らない事を言えるわけではない、と訴えたのだが、それはデジレの質問を額面どおりに受け取っただけである。
彼にしてみれば、彼女の思考と言動から探ろうとしたのであって、単純に質しただけではない。
キアラの怒りなど意に介さず、手首をより引っ張った。
「重々承知でものを申し上げますが、キアラ様。我々の存亡が貴女一人に掛かっているのですから、無下に出来ないのは存じておりますね? あの赤ん坊が成長するまでは、貴女を頼りにせねばならない哀れな人類を見捨てないで戴きたい」
懇願でもなく、哀願でもない。
酷く威圧的な、生への欲を隠さない本能である。
だが、それに対するキアラも至極冷たいものであった。
「駄目なときは駄目なんだと理解しなさい。あの子が育たなければどうせ人類など滅びるの。あの子が生まれたばかりなのに、私がいますぐ死にそうなのは、そういうことではないの?
私の体にいっさい手を掛けず、手も触れず、長い間を飼い殺しにして、それでも私はこの星に貢献してきたはずよね。私は文句も言ってないわ。それが自分の宿命だと思っているもの。それなのに、これ以上にお前たちは不満があるですって!」
腕を起こしてデジレの手を振り払った。
「こんなに長い間よ? お前たちには分からないでしょうね。お前たちはいつでもどこでも行けるもの」
こんなにも憤懣やるかたない事は無いのだと、積年の激情が迸った。
「家に帰りたいのは、私も同じだってね!」
デジレの片眉が上がる。
「家に帰りたいですって?」
「―――」
キアラは口をつぐんだ。
「……貴女は、キアラ様は、そうですか。戻りたいと仰る。―――なるほど、そうですか」
口の端の角度が微かに上向いて、デジレはしたり顔をした。
―――ひとときヒステリックな状態にあったため、キアラの体力は消耗してしまった。
デジレの診断と尋問でぐったりとしたので、ジョットが相席する夕食は出ないことにし、そのままベッドで眠る準備をする。
(なんで―――今日はこんなに疲れるの……)
昼間の新しい空気は何処へやら、重くて暗い魔物が居座ったようである。
ベッドメイキングの間、曇天の雲を見上げて溜息をつく。
気持ちも体も、全ての内面と空の様子を映し出して、薄空色の瞳も曇天だった。
―――叶
懐かしい人を思い起こすのは、現実逃避をしているからではない。
ただ、あの少年が気懸りなのと、何故か彼に会いたいという、素直な気持ちだったからだ。
―――会えたら、連れて行ってくれるかな……
あの時、傍に居るって約束したのにね。
ごめんね……
自分の鼓動が、キアラに何かを告げていた。