014 β-ヤノ
懐かしい話が母とナラネのあいだに花咲くので、叶も一生懸命に薄れがちな記憶を思い出しながら、時々参加を試みていた。
ナラネが勤めているウォーター・ファームの話は、父親から聞くよりも別の視点が面白い。
アッペリウ星系は、住人が疾患持ちが殆どと言うところから、食材に非常に気を使うために発展した農業で経済をなしている。
その一大産業を担っている会社の一つが『ウォーター・ファーム・カンパニー』であった。
「大々的に流通に乗せるといっても、ワクチン無しじゃ生きていけないヤノ人じゃ、あまり遠くに出たがらないものねぇ」
「ほかの星系からさらに雇うことにしています。その話を詰めるとか何とか」
「貨物船の建造も必要になるのかしら?」
「ヤノでも充分に建造能力ありますが、リースしたほうが早いと言うことで」
「自社物件はあっても悪くないわ。どちらにせよ新たな融資の話も待ったなしね」
詳しいことは分からなくても、父親が事業拡大に向けて大きな仕事をしている様子が窺える。
他の星の話も色々聞きたいが、ナラネ本人はアッペリウから出たことが無いらしく、あまりネタは出てこなかった。
(他の星系かぁ……一番近くて五光年くらいだったかな……)
淡い冒険心が湧き上がってくる。
此処を飛び立って、真上からアッペリウと、それを回る惑星達を俯瞰できたら楽しいのに!
「―――別に事業を立てるのなら、本社は何処になさるの?」
「さてー、どこになるんですかね……ヘタするとメディアの方が情報持ってたりしてますから……輸出事業となれば、やはり現地が一番良いでしょうから、本社に近い機能は持つんじゃないですか?
ただ、『ヤノ』の名前は冠するとか言ってますからね」
「それはただの『ヤノ』?」
「と言いますと」
「ええ、だって此処は一応の正式名称が『β‐ヤノ』じゃない? 一番を目指すなら『β』は避けたいわねーって、験担ぎ」
「あ、それですか、それについては何とも……社名からして揉めてるって話まで出てますから」
食事を終えてカーペットの上、セアドの隣で寝転んでいた叶が質問を投げる。
「『β‐ヤノ』って? この星の正式名称なんてあったの? 学術名称じゃなくて?」
二杯目のお茶を飲み干したナラネが答えた。
「あんまり使わないですよ。殆どの人は忘れてるんじゃないかなぁ、学校でも習わないだろうし」
そして、そろそろ帰ろうと思いますと、母に帰宅の意思を伝える。
「あら、ごめんなさい。ついつい長話になってしまって……」
彼女のお喋りに掴まってしまったも同然である。
再度ねぎらいの言葉をかけてから、玄関に行くため席を離れる。
叶はダイニングを出るナラネを、カーペットの上に立って手を振った。
それから、
「……セアド」
「なに?」
「聞いたか?」
「ん?」
「『β‐ヤノ』って言うんだってさ」
「だからなに」
ゴツンとゲンコツでセアドの頭を小突くと、自分の部屋に入る。
「いてーな、ワケわかんねぇよ」
ぼやきながらセアドも入ってきた。
◇ ◇ ◇
デジレとジョットが書いた報告書を読んだから来いと言われて、基地司令のいる部屋を訪れたダニロバは、半ば覚悟を決めてドアの外に立っていた。
両側にスライドした扉は、口を開けてダニロバ大尉を吸い込もうと待ち受ける。
一歩踏み入れて、足元の数段ある段差を上へと視線を昇らせた。
そこには基地司令たるモーレル准将が気配を消すように外を見ている。
「ダニロバ大尉であります」
彼はダニロバよりも背が低くて痩せていた。
薄く禿げかかった髪に、油断のならない目つきを怠らない。
だからと言って小物、と言う人物でもない。
「読んだよ」
小男が短く感想を述べる。
あまり好ましくない上官ではあるが、反りが合わないからと言って仕事をしないわけにもいかない。
「……裁定は下りるのでしょうか」
「―――」
モーレルの無言に、ダニロバは掌に汗が滲み出るのを感じた。
口を開くのを待つしかない。
モーレルが腕を組んで暫くの後、
「原因が不明だとな」
と、不快感を隠さずに言った。
「……と、申しますと」
「この報告書では不十分だと言っている」
「ですが」
「私がここに赴任してから大した時間は経っていないが、君らは私を素人だといいたいのかね」
「いえ、それは」
「この基地、そう、この『スタウト基地』の重要性は、一般の将兵でさえ明確に認識できるほどだ。それだけ最重要事項であると理解している。それがこの内容では、今後の調査で何年かかっても参考にすらならない」
「……」
今にも目の前で報告書のシートを燃やしかねない語気である。
「“記憶が無い”と言ってデジレの仮説であるのは使い物になるのか? あの女がこの基地を二度も脱走したというのに、大人しく居座っている理由が思いつかん。本人が居るのに本人から話を聞いていないではないか」
確かにそうである。
この騒動の元凶であるキアラに、「何をした」と聞けばそれで済むものだろうが、この程度の調査すら出来ないことは何故なのか。
「彼女には」
一呼吸置いて、
「“答えを聞いてはいけない”、からです」
いとも簡単に、ダニロバはモーレルの疑問に答える。
「なに?」
「正確には、聞けないのです」
「そこまで神聖不可侵だというのか? ―――いや、確かに肉体的拷問を加えることは禁じられている。何かしら薬剤の投与も出来ないのは知っている。なにしろ彼女は『自然』だからな!」
自分で言いながらイライラしたのだろう、デスク上のデカンタからコップに注いだ水をあおる。
ゴクリと鳴る喉の音がダニロバにも聞こえた。
「うっかりあの女を分解してしまったら、我々の生命が大変なことになるのも知っているぞ」
「仰るとおりに、神聖不可侵の扱いです」
「当然だ!」
喉は冷えたが頭は冷えなかったらしい。
「なぜ本人の口から、直接聞き出せないのだ?」
「お言葉ですが、それが出来ていたら、このような内容にはなっていません」
用心深くモーレルの表情を窺いながら述べた。
「何故なら、“彼女の記憶も無い”からです」素早く言ってから続ける。「記憶喪失ならば、薬剤を使うなり催眠で探るなり方法がありますが、しかし神聖不可侵ならやってはいけないことです」
絶望的なほど手段の無さにモーレルの小さい目が見開く。
「……よかろう。記憶喪失だとな。それは自己申告でしかない事は考えないのか?」
「信じるしかありません」
「信用だと?」
「はい。問題が起きても彼女に直接関わらないのが不文律化しています。慣例です」
「では、またあの女が、基地を脱走する可能性もあると考えないのか?」
「考えてはおりません」
「そうなったらどうするのだ」
「探すしかありません」
「矛盾しているぞ」
畳み掛けるように重ねてきた言葉には、ダニロバも断固とした意思で応えねばならなかった。
「何が起きても―――彼女が居なければ、我々は生きてはいけないのです」
恐らく、誰も逆らえない一言であった。
少しのあいだ、モーレルは沈黙した。いや、もしかしたら絶句のほうがニュアンスが近いかもしれない。
それから、ダニロバから視線を外して報告書を見下ろす。
「いいだろう。ここまで聞いたし、事情も理解しているつもりだ。しかし本部が真実を欲しがっていると、非正規の要請が来ている。私ではどこまで庇いきれるか分からん。……触れてはならないものに、触れたがっている輩がおるのを忘れるな」
不穏な空気が彼の背後に漂っているのである。
「下がっていい」
この時間だけで少し距離が埋まったような上官に、ダニロバは敬礼すると頭を下げて退出した。