サティの調べと研究者
「ガリ勉くん、もう閉館なんだけど」
サティのジムノペディにあわせて図書館に残っていた後輩達が帰り支度をするなか、参考書を開きシャーペンを動かすのをやめない同級生のオガタ君を帰らせようと声をかけた。
「少し待って欲しい、まだ一番の途中じゃないか」
オールバックから長く伸びた襟足をかいたシャーペンがノートに戻り、数学の証明問題をすごいはやさで解いていく。
「じゃあ二番が終わったらかたづけ始めてね」
言い残して私は大きく切られた窓の外を眺める。
外は暑さの残る夕暮れで、白いベールのような雲がトキ色に染まりつつあった。
「だーっ! 間に合わなかったか」
悔しそうな声が後ろから聞こえてきたのでオガタ君の所に戻り、なんとなく正面に座った。
先ほどの声とはうらはらに、特に恨み言もいわず机に広がっていたものをテキパキと鞄にしまっていく。
「ガリ勉くんって感情豊かだよねぇ」
荷物を入れていた手をとめ、縁なしメガネの奥の切れ長の目が心底意外そうに私を見てくる。
「そんなにか?」
「そゆとこやぞ。ま、約束は守るから別にかまわないけど」
きっちり二番で勉強やめたし。
「遺伝子工学の研究者になる夢以外、他人の評判なんてどうでもいい」
夢という言葉を軽く使う彼に、私はすこしイラッとした。
私にとって夢は苦しいものだ。
落選の結果を見るたびに心が痛み、嗅覚が涙にまみれ、批判の声に落胆し、いらだった毒の苦みに顔をしかめる。
実を結ばない夢から逃げたいのに結局また筆を手にしてしまう。
そんな葛藤がこの男にはないのか。
「怖くないの?」
「なにが?」
鞄の持ち手にかかった手を下ろしてオガタ君が訊いてきた。
「研究者になれない未来が」
ジムノペディはとっくに別の曲へと変わっていた。
ガラにもない事を言ってる自覚はあるけど、訊かずにはいられなかった。
「僕はもう研究者だよ」
帰ってきた言葉があまりに予想外で何も言えなかった。
「高校生のガリ勉くんが研究者? ふざけてるの?」
けっこうとげとげしく言ったつもりなのに、オガタ君は強くうなずく。
「夢中で努力してるうちは文字通り夢の中さ。夢に向かって夢の中を歩いている。そうしているうちは、自分は研究者だと思ってる。だから夢はもう叶っている」
叶えるのではなくて、叶っている。
言っている事はおかしいのに、なぜか否定できない。
「キリッとした顔でいうけども、論理破綻してない?」
「もしかして、引いてる? 坊さんやってるじいちゃんの話をじぶんなりに噛みくだいたんだけど」
こちらがだまっていたので自信がなくなったのか、オガタ君はちょっと眉尻を落とした。
「引いてない。ただ、理系でも論理的じゃない考えするんだなっておかしくって。ふふ」
面長な顔が大型犬みたいでかわいい。
オガタ君みたいに考えたら、苦しくてもやめられない矛盾した夢を受け入れられる気がしてきた。
「そんな顔しないでよ。他人の評判なんてどうでもいいっていってたくせに意外とナイーブだね」
さらに矛盾をついてやると、さらに眉尻がさがってきた。
感情豊かだと思ってたけど、こんな顔もするんだ。
なんだかいじりがいのある人を見つけてしまった。
「そりゃ、どうでもいい他人の評判なんて……」
しまった、という表情を全力でされれば、つぶやかれた方もその意味を嫌でも悟る。
感情が豊か過ぎるのも周りを困らせる。
不意打ちを食らった方の身にもなって欲しい。
「……帰ろうか」
「うん……そうだ、今度おじいちゃんに合わせてもらってもいい?」
「なんで!?」
唐突な申し出でパニックになるオガタ君。
「それは、オガタ君の事をよく知るためよ」
にやける顔を押さえ、私は図書室の鍵をとりにカウンターへと走っていった。