泳いでいく。
僕と赤い魚は良く似ている。
叶わぬ思いに胸を焦がし、嘆いている。
「言えないよね」
嘘なんて。
「言えないわよ」
嘘なんて。
僕たちは、空を見上げた。先程まで嘆き悲しんでいた雲が、隙間から光を覗かせている。
雨はまだ止んではいなかったが、雲の涙が枯れるのも近い気がした。
魚になれる時間も、終わりが近付いていた。
「止むかな」
雨が。
「止むかな」
涙が。
いつまでも魚になっていたかったのに、終了の時は迫っている。僕は魚になりたい。魚になり続けたい。
「相手の幸せを願わないなんて、最低よね?」
赤い魚が口を開く。
「仕方がないよ、僕には出来ない」
人間に戻りかけている僕が、肯定する。
「私にも、出来ない」
赤い魚はそう呟き、微笑んだ。僕もつられて微笑んでみせる。
「止んだら、お終い?」
上半身を起こし、赤い魚が空を見上げた。
「お終い、かな」
眩しく照りつける太陽を憎々しく思い、呟く。
「でも、水があれば魚になれるから」
雨でなくても。溺れるほどの水を流し、僕は魚になる。
「人間には戻りたくないな」
この思いが泡と化すのなら、このままで。
「奇遇ね、私も」
憧れる心、恋焦がれる心は、このままで。
赤い魚が立ち上がる。降り注ぐ涙はもう、僅か。
「人間、辞めちゃおっか?」
減りゆく傘の花を眺め、僕もゆっくり立ち上がる。僕の心の涙と違い、雲の涙は枯れ始めていた。
*
通り雨は残酷に、僕の海を奪っていく。周囲を泳ぐ魚たちが、人間へと姿を変えていく。
「辞めるって、どうやって?」
赤い魚に尋ねてみる。方法があるのなら、僕はそれに従いたい。
「泳ぎ続ければ、いつかは」
魚に、なれる。
「どうやって?」
海はもう枯れ始めている。人間に戻る時が近付いて来ている。魚で居続けられる時間は、もう。
「海は、枯れないわ」
化粧の溶け出した顔をタオルで拭い、彼女は続ける。
「枯れない、私の海は、涙を流し続けてる」
変色したタオルを鞄の奥にしまい込み、赤いドレスの女は続ける。
「お姉さんに、伝えて」
僕を見つめ、微笑みを浮かべ。
「あなたのことが好きでした」
ずっと、好きでした。これからも、ずっと好きです。愛しています。
「さようなら」
彼女はそう告げると、そのまま雑踏の中に消えてしまった。赤いドレスを着た魚は、自分の海へと帰っていった。
僕は、彼女の言葉を思い返す。
あなたのことが好きでした。
ずっと、好きでした。これからも、ずっと好きです。愛しています。
さようなら。
僕の伝えたかった言葉と、彼女の言葉は同じで。
姉に伝えてしまうと、僕はもう、気持ちを泡に帰すことしか出来なくなってしまう。
彼女は僕を差し出して、ひとりで魚になろうとしている。僕を人間に戻して、ひとりで魚になろうとしている。
赤い魚を探したが、見付からない。赤い魚は、ひとりで海へと戻ってしまった。赤い魔女は、僕の全てを奪って消えた。
僕の海から水を奪い、赤い彼女は消えてしまった。姉の友人は、消えてしまった。
式場へと戻った僕は、自分の喉下に言葉というナイフを当てた。人魚姫がそうしたように、僕も泡と化すしかない。
「姉さん」
突然消えた僕を探していた親族が、ずぶ濡れの僕に気付く。魚になっていたと伝えても、彼らは理解しないだろう。
乾いたタオルを手渡され、水分を奪われていく。魚でいられる時間は、あと僅か。
「伝言があるんだ」
僕からの。赤い魚からの。
「何?」
式は滞りなく終了しており、姉と、親族しか会場にはいなかった。友人がひとり消えていても、親族がひとり消えていても。回り始めた歯車は、止まることを知らない。
泡と化す前に、僕は姉の姿を目に焼き付ける。この先消えてしまっても、いつかは思い出せるように。
あなたのことが好きでした。
ずっと、好きでした。これからも、ずっと好きです。愛しています。
さようなら。
僕はそう告げ、人間へと戻る。
魚になり、姉を遠くから見つめることも出来ず。
――僕は、泡になった。