足掻いている。
雲の嘆きは相当のもので、時折、稲光を交え嗚咽していた。それでも、全身がびしょ濡れになった僕たちは、泳ぐのを止めない。
「ねえ」
赤い魚が声を発する。
「何?」
僕は泳ぐ速度を緩め、彼女の声を聞いた。
「何で傘も差さずに歩いてるの?」
泳いでいるんだよ。僕は魚だから、濡れていないと死んでしまうんだ。
そう答えようと思ったが、彼女には伝わらない気がして、止めた。
「あなたは?」
返事の代わりに質問をする。何故僕の後をついて回るのか、見当も付かないから。
「歩きたかったの、君と同じ」
少しハスキーな赤い魚の声は、姉のものと似ていた。
「ね? 少し、休憩しよ?」
身勝手な魚は僕の服の袖を引き、並んで雨宿り出来そうな場所へ、僕を連れ込もうとする。地響きのように激しい嗚咽が、嘆く雲から轟いた。
赤い魚は雨が吹き込まないように道路側に背を向け、手に持った鞄からフィルムに包まれた小さな箱を取り出した。包みを開き中から一本取り出すと、火を点ける。
煙草の煙を吐き出しながら、彼女は口を開いた。
「ねえ、どうして歩いてるの?」
「泳いでるんだよ、魚だから」
説明するのも面倒なので、僕はそう吐いた。
「泳いでる?」
それほど驚いた様子もなく、彼女は続ける。
「私も、泳ごうかな」
激しい閃光。空を見上げると雲の嘆きは頂点に達したかのようで、隙間なく埋め尽くされた灰色の塊が、全てを多い尽くしていた。
彼女の吐き出す煙の色と、良く似ている。
「疲れちゃった、人間やってくの」
足元に落とした吸殻を踏み付け、赤い魚が空を見上げた。
「魚になりたいな、私も」
つられ、空の嘆きも激しさを増していく。
「簡単だよ」
姉と似た声を持つ魚を見ながら、僕は号泣する空の涙に身を任せた。
*
アスファルトの地面に横になり、空と向き合う。ずぶ濡れの身体に、涙が降り注ぐ。心地好く激しい涙が、僕の全身を撃ち付ける。
「ほら、簡単」
僕は魚だから、雨がないと死んでしまう。
「本当、簡単ね」
赤い魚も、雨がないと死んでしまうのだろうか。
横に寝そべる彼女を見ながら、僕は自然と口を開いていた。
「姉が、結婚するんだ」
だから僕は魚になった。
「うん」
さして興味もない様子で、赤い魚は空を見据えている。
「本当は、おめでとうって言わないといけないんだけど」
言いたくない。姉が他人のものになることなど、耐えられない。
雲の嘆きより、僕の嘆きの方がずっと。
「めでたくないんだ」
僕の嘆きの方がずっと、深く、苦しく。
「めでたいなんて思えないんだよ」
救いがない。
彼女に、空に向かって宣言する。僕は姉のことが好きだった。ずっと、今でも。いつまでも。永久に。好きだった。
激しい涙が、魚になった僕の心を突き刺していく。激しい雨粒が、僕の心を責め立てる。
一時の気の迷いだと、何度も言い聞かせてきた。けれども容赦なく、僕の心を奪い去る。
姉が憎く、愛しかった。
降り注ぐ涙と流れ出した僕の涙が混ざり合い、アスファルトに解けていく。
「言わなくて、良いんじゃない?」
赤い魚の一言が、僕の心を溶かしていく。
「言えないなら、無理に言わなくても」
僕の欲していた言葉を、姉と似た声で。
「私は、良いと思う」
姉を祝福しなくても良いと、その声で赦してくれる。
「私は、言えなかったから」
激しい涙が、声を霞める。耳に届くはずの声を掻き消していく。
赤い魚の独白は、僕の耳に届かない。嘆き悲しむ雨の声だけが、僕には聞こえていた。