呪われたスパルタ人 9
「ごめんなさい、アルケシラオス」
招かれざる客が退散すると、彼女はさきほどまでの勇ましさが嘘のようにしとやかな態度になって、夫に歩み寄った。
「あの外国人が、アレウスをばかにするのがきこえたものだから。黙ったままでいる気には、とてもなれなかった」
「かまわん」
アルケシラオス殿は妻の肩を抱くと、機嫌よく言った。
「見たか、あのプサウミスの面を! 仕込みたての葡萄酒さえも腐らせてしまいそうな顔つきだった。笑いをこらえるのに、一苦労したぞ」
「まったくです」
まじめな顔でうなずいたアレウスに、アルケシラオス殿は、にやりと笑いかけた。
「アレウス、おまえの最後の一言もよかったぞ。奴に、ぐさりととどめを刺したな! そして、何よりも見事だったのは、そなただ」
ホメロスをふりむき、讃嘆のまなざしを向けて、アルケシラオス殿は言った。
「あれほど並んだ壺の中の、ひとつだけが様子が違うと、すぐさま気づくとは!
奴め、壺に血をつけたのは、わざとに違いない。やはり、我らを呪う気だったのだ。あれは、まじないのたぐいに決まっておる」
「そのことですが」
ホメロス自身は、アルケシラオス殿の賛辞も耳に入らぬようすで、浮かぬ顔をしていた。
「いささか、妙ですな。呪いをかけるつもりならば、もっと気づかれぬように、目立たぬようにするはずです。
たとえば、先ほど、すべての壺がおなじ形状であったならば、この僕をもってしても、異変に気づくことは難しかったでしょう。なぜ、ひとつだけを、わざわざスパルタ産の壺にしたのか……」
「アルケシラオス」
ホメロスが黙りこむと、夫に肩を抱かれたままの夫人が、怪訝そうに言った。
「こちらは?」
「ああ、こちらは、ホメロス殿だ。旅の御方でな。例の件について、我らに力を貸してくださるというのだ」
「おや」
夫人はじろりとホメロスを見た。
その視線は、先ほどプサウミスに向けていたのとおなじ、外国人に対する冷淡さと尊大さとがいりまじった、とげとげしいものだった。
「よそものが、スパルタ人の悩みを、スパルタ人よりも巧みに解決できると?」
「僕の手腕をお疑いのようですな」
ホメロスが穏やかに言うと、夫人は、ふんと鼻先で笑った。
「そのとおり。壺のことさえ分からぬというなら、その他のこととて、分かるかどうか怪しいものだ」
「では、あなたには、もう、お分かりになっていると?」
ホメロスの問いに、夫人は、はっきりとうなずいた。
これには、さすがのホメロスも、アルケシラオス殿とアレウスも、驚きを隠せなかった。
「それが本当なら、アルケシラオス殿は、世にたぐいなく明敏な方を妻にしておられる。ぜひとも、あなたの推理をうかがいたいものです」
「壺についていたのは、おそらく牛の血だ。中身も、そうだったろう」
夫人は、そっけなく、それだけ言った。
ホメロスが、その意味を理解するよりもはやく、
「そういうことか!」
と、叫んだのはアレウスだ。
彼は興奮して、父とホメロスとを交互に見た。
「プサウミスは、我々に、オリュンピア競技祭の規則に背いたという汚名を着せるつもりだったのです! 競技に出場する前に、牛の血を飲んで、精力を増そうとしたという――」
「牛の血?」
「そのとおり」
思わずつぶやいたホメロスを勝ち誇ったように見つめて、夫人は言った。
「プサウミスはおそらく、ここを立ち去った後、審判たちに通報しに行くつもりだったのだろう。もちろん、自分は動かず、配下の者を動かして。
わざわざ、ひとつだけをスパルタ風の壺にしたのは、奴ではなく我々が、あの壺をあそこへ隠したのだと、審判たちに思わせるためだ。
壺の外側に血をつけておいたのは、審判たちが調べたときに、外側に血が見つかれば、中身をあらためる口実になるからだろう。そうでもなければ、スパルタ人の酒壺を無理にあけさせようとするような命知らずは、なかなかいないだろうからな」
「うむ、なるほど!」
アルケシラオス殿がうなった。
「それにちがいない。アレウスが規則違反で失格すれば、戦車競技の勝利は、たやすくプサウミスの手元に転がりこむことになろうからな」
「奴を追いましょう!」
アレウスが勢いこんで叫んだ。
「あの壺を持っているところを捕らえて、審判団に突き出すのです。そうすれば、奴のほうが失格することになるでしょう!」
「いや、もう手遅れだろう」
アルケシラオス殿が、苦い顔で言った。
「ああいう手合いは、己の不利になると見るや、たちまち証拠を消し、知らぬ存ぜぬを押しとおすものだ。おそらく今ごろは、壺も中身も処分させていることだろう。追っていって難詰すれば、逆に、自分のほうがぬれぎぬを着せられたといって、騒ぎ立てるに違いない」
「どこまでも卑劣な真似を! 先ほど、この場で取り押さえてやるのだった!」
「いや」
怒るアレウスに、ホメロスは静かに言った。
「それでもやはり、彼は自分の無実を言い立て、『この壺はスパルタ人のものだ、こちらに罪をなすりつけようとしているのだ』と、審判団の前で主張することでしょう。
あの壺を用意した者は誰か? それを明らかにする客観的な証拠がない以上、この件に関して、プサウミスを追い詰めることは難しいでしょうな。
いや、それにしても、お見事です」
憤慨する父子のそばで静かな顔つきを見せている夫人に対し、ホメロスは、うやうやしい態度で言った。
「牛の血ね。見事な推理です。今の出来事に、すべて説明がつきました」
「まだ、出番はありそうかな、客人よ?」
ばかにしたような口ぶりの夫人に、ホメロスは微笑んだ。
「もちろん。ふたつの件が、いまだ解決しておりませんから。
息子さんが何者かに後頭部を殴られた件と、呪詛板の件です」
夫人は眉をひそめた。
「それらも、プサウミスのしわざだったのではないか?
現に今、奴は、我々を罠にかけようとしたではないか。呪いをかけ、息子を襲わせ、それでも首尾よくいかぬとみて、みずから動いたのだ」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれません。今の段階では、証拠があまりにも少なく、断定することはできませんな」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない、だと?
おまえの言っていることは、何の意味もないし、役にも立たないではないか!」
夫人は声を荒らげ、真正面からホメロスを難詰した。
「アレウスが出場する戦車競技は、明後日なのだ! それまでに、犯人をはっきりさせ、片付けてしまわなくては、息子の命が危ない!」
「母上」
アレウスが、静かに言った。
「父上の客人です。どうぞ、お心をしずめられ、失礼のなきよう。
それに、私は、卑怯な妨害など恐れてはおりません。必ず勝利の栄冠を持ち帰ってみせます」
息子の言葉をきいても夫人の憤激はおさまらず、なおもホメロスを面罵しようとしたが、アルケシラオス殿がその肩になだめるように手を置くと、彼女は大きく息をつき、いくぶんか口調をやわらげた。
「このとおり、わたしの息子は勇敢だ。外国人の助けなどいらぬ……と、いいたいところだが、ほかならぬ息子と夫が、そなたの加勢を求めるのならば、わたしは従おう。
だが、そなたが、ふさわしい働きを見せぬうちは、わたしはそなたを信用せぬ」
「もっともなお言葉です」
ホメロスは微笑んだ。
「ときに、戦車競技の開催は、明後日とおっしゃいましたね?」
「そうだ」
妻にかわって、アルケシラオス殿がこたえた。
「明後日の、日の出とともに出走する」
「では、今日これからと、明日いっぱい、アレウス君はどのように過ごす予定でしょうか? 僕はできうるかぎりアレウス君と行動をともにし、彼を危険から守りたいと思います。むろん、」
夫人が口を開きかけるのを制して、ホメロスは続けた。
「僕が警護のためにアレウス君に付き添うというのではなく、アレウス君に、オリュンピアを案内してもらう、ということにしましょう。
そういう様子であれば、人目を気にすることもないし、かえって、試合の前にも気負うことなく客人をもてなしているということで、アレウス君の評判も高まることでしょう」
「ええ、喜んでご一緒しましょう」
アレウスは言った。
「今日は、このあと何も用事はありません。
明日は、朝から評議会場でのゼウス・ホルキオスへの宣誓の儀式があって、父と私が出席します。そのあとで、神々の祭壇をまわり、犠牲を捧げて勝利を祈願します。
午後からは、用事はありません。馬たちや戦車のようすを確かめておくくらいです。
ただ、その翌日が戦車競技の本番ですから、はやめに休まなくてはなりません。日の出とともに出走ですから、朝は早いのです」
「よく分かりました」
ホメロスは満足げに両手をもみあわせた。
「それでは、今日これからと、明日の午後いっぱいを捜査に費やすことができるわけです。それだけあれば、じゅうぶんに可能です」
「何が、ですかな?」
「犯人を特定することです」
ホメロスはアルケシラオス殿に向かって、力強くうなずいてみせた。
「僕はこれまでに見聞きしたことがらの中から、すでに今回の事件に関するいくつかの示唆を受け取りました。現時点では、複数の可能性があります。あとは実地の調査を行い、裏付けをとるだけです」
「客人よ」
横からそう言った夫人の口調は、なおも冷ややかなものだった。
「失礼ながら、やはりそなたの言うことは、からのクルミも同然だ。長々と話しているようでいて、何の役にも立たない。
『現時点では複数の可能性がある』だと? それは、この世のあらゆることがらに対して言えることではないか!
そなたは、何にでも当てはまるようなことを、もっともらしく話しているだけだ。スパルタ人は、しろうと占い師に用はないぞ」
それを聞いたホメロスが急に吹き出したので、スパルタ人たちは驚き、夫人は怒りに顔を赤くした。
「何を、笑う!」
「いえ、いえ、失礼」
笑いをかみ殺して威儀をただし、ホメロスは言った。
「ご夫妻で、あまりに似たことを仰ったので、微笑ましく思ったのです。
確かに、今、あなたのご家族は現実の危機に瀕しておられる。実際の役に立たなければ意味がない、とおっしゃるのは、もっともです。
実地の調査にかかる前に、まずは、別の手を打つとしましょうか」
「別の手?」
「ええ。おそれいりますが、青銅の尖筆を一本と、薄い鉛の板を一枚、用立てていただけますか?
今のオリンピアにはありとあらゆる露店が出ていることでしょうから、どちらの品も、入手は困難ではありますまい」
「青銅の尖筆に、鉛の板だと?」
「ええ」
ホメロスはにやりと笑った。
「しろうと占い師が、しろうとでないというところを、ひとつお目にかけましょう。呪詛には、呪詛をもってするのです。
つまり、アレウス君を呪った相手への、呪詛返しを試みようというのですよ」