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呪われたスパルタ人 8

     *     *     *



 美しい少年たちを取り巻きとして引き連れた灰色の髪の男は、アルケシラオス殿と向かいあって腰をおろすと、開口一番に、


「なにか、お取込み中でした?」


 と言った。


「いいえ」


 アルケシラオス殿は、明らかに乱闘のあとをしめす腫れあがった顔で、それだけ答えた。

 カマリナのプサウミスは、どうも相手の意図を判じかねるといった顔つきで、じろじろとアルケシラオス殿の顔を見つめた。

 プサウミスの、しわもひげもない顔は端整で若々しかったが、衣のうえに上品に置かれた手は、年を経て節くれだった木の枝のように見えた。

 やがて、彼はとりなすように話題を変えた。


「あなたがたも、聖域内にお泊まりになればよろしかったのに。ここまで、アルフェイオス川を越えてくるのは、なかなか骨が折れましたよ。川沿いに野営している連中のせいで、ひどいにおいだ。あんな水で衣のすそを汚したくはなかったのでね。――いや、まあ、そんなことはどうでもよろしい」


 プサウミスは豪奢な衣をこれみよがしに払いのけると、石像のように黙っているアルケシラオス殿に笑いかけた。


「ここへは、一言お見舞いを申しあげたくて参ったのです。息子さんが、ずいぶんと不愉快な目に遭われたそうですね?」


「今ですか?」


 そんな声が聞こえて、プサウミスは振り返った。

 入口のわきにはアレウスが立っていたが、彼はそれ以上、何か言いそうな様子もなく、そもそもプサウミスのほうを見てすらいなかった。


「……いいえ」


 スパルタ人は短い言葉で相手の心臓を刺す、といわれるが、実際にそれを受けても、プサウミスは顔色を変えなかった。


「つい先ほどのこと。噂をききましたよ。ヒゲワシが落とした亀の甲羅が、頭にぶつかったそうですね。ひどく……そう、ひどく運の悪い事故だ。お加減は、もうよろしいのですか?」


「ええ」


 短く返答するアレウスは、相変わらずプサウミスのほうを見ない。


「それはよかった! 明後日の戦車競走があやうく台無しになるところでした。競り合う相手がいないのでは、勝負はいかにもつまらない」


「ええ」


 今度はアルケシラオス殿が、息子とまったく同じ言葉を発した。

 プサウミスの取り巻きの少年たちが、そわそわと居心地悪そうに体を動かし、主人とスパルタ人とを交互に見る。

 主人がこのように冷淡な応対を受ける場面には、慣れていないらしかった。

 しばしの沈黙の後、


「それでは、私たちはこれで。――ああ、そうだ」


 プサウミスは愛想よく笑って立ち上がると、数度、両手を打ち合わせた。

 それを合図として、屈強な奴隷の男たちが、一抱えほどもある壺を次々と天幕のなかに運びこんできた。


「私からのお見舞いとして、葡萄酒を持ってまいりました。シケリアから運ばせたものです。わずかばかりですが、ぜひご賞味ください」


 わずかばかりというのは、明らかに謙遜か、さもなくば嫌味であるに違いなかった。

 たちまち、天幕の一角に、ぎっしりと固めて並べられた壺の隊列ができあがる。

 そのとき、


「あれは?」


 と、天幕の片隅から不意に声をあげた、アルケシラオス殿におとらず顔の腫れた男を、プサウミスはじろりと見た。


「どなた?」


「息子の友人です」


 アルケシラオス殿がそう答えるのとほとんど同時に、


「ホメロスです。どうぞよろしく。ところで、あの壺ひとつだけ、他とは、微妙に形が違いますね」


 挨拶もそこそこに、ホメロスはそう言って、隊列の半ばに埋もれるようにして置かれた壺をゆびさした。


「おや、そうですか?」


 カマリナのプサウミスは愛想のいい笑みをうかべ、つま先で神経質に地面を打った。


「気づきませんでした。奴隷たちに申しつけて用意をさせましたので――」


「これはスパルタ風の陶器です」


 ホメロスがさした壺にすばやく近づき、様子をあらためていたアレウスが言った。


「他のは全部、異国風です。絵付けが違います」


「ほう、それが、スパルタ風の陶器ですか。ちょっと拝見」


「ああ、ええ、運ばせるときに間違いがあったのかもしれません。その壺は、こちらで持ち帰り――」


 プサウミスの言葉を耳に入れた様子すらなく、ホメロスはさっさと進み出ると、アレウスが持ち上げた「スパルタ風」の壺を受け取った。


「なるほど、素朴ながらも力強さを感じさせるつくりですね。……おや、これは何だ?」


 ホメロスは急に壺を地面に置き、自分の手のひらを一同にしめした。

「スパルタ風」の壺の底あたりをつかんでいたホメロスの、片方の手のひら全体に、赤い汚れがついていた。


「血だ」


 汚れを指先でこすり、慎重ににおいをたしかめて、ホメロスはプサウミスを見た。


「これほどの範囲に血がつくとは、かなりの出血量ですね。壺を運んだ奴隷たちのなかに、手に大けがをした者はいませんか?」


「調べます。お見舞いの品を血で汚すなど、とんでもないことです。見つけたら、ただではおきません」


 プサウミスは、かたい声で、早口に言った。


「どうも、かえって不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。その壺は、こちらで引き取ります。お詫びのしるしに、後ほど、別の葡萄酒の壺を三つほど届けさせましょう。さらに上等なものをね」


「無用です」


 それまで黙って事態を見守っていたアルケシラオス殿が立ちあがり、「スパルタ風」の壺を持ち上げて、プサウミスに押しつけた。


「その壺ひとつといわず、すべてを持ち帰っていただきたい。我らは、貴殿のような贅沢には慣れておらぬ。大切な試合の前に、酒がもとで調ようなことがあってはなりませんからな」


「勝負のあとまで、とっておかれてはいかが?」


 プサウミスは、もはや笑ってはいなかった。


「シケリア産の葡萄酒は、人生の辛さを忘れさせてくれますよ」


「それならば、なおのこと、そちらで取っておかれるがよい」


 はっきりとそう答えたのは、アレウスだった。

 彼はいまや、真っ向からプサウミスを見すえていた。


「勝利を祝うには、スパルタ産の葡萄酒こそがふさわしい」


「ずいぶんと思いあがった口をきくじゃないか、坊や?」


 プサウミスの端整な顔がゆがみ、牙をむく毒蛇を思わせる顔つきになった。


「母親につきそわれてオリンピアにやってくるような雛鳥が、勝利だと? 笑わせてくれる――」


 その瞬間、さまざまな出来事が、一瞬のうちに起きた。

 アレウスが、表情をまったく変えないまま跳躍し、プサウミスの喉首につかみかかろうとする。

 ホメロスは、それを制止すべく、アレウスに飛びかかろうとした。

 プサウミスと少年たち、奴隷たちは、全員が同じように顔をひきつらせ、アルケシラオス殿は息子に加勢すべく拳を振りあげる――

 そのときだ。


「今、よそ者が、スパルタの女の息子をばかにするのが聞こえたような気がする」


 女性の声が聞こえた。

 その声には堂々たる威厳と、どこか不穏な――舌なめずりをする獅子を思わせる響きがあり、男たち全員が、その場でぴたりと動きを止めた。


 天幕の入口に姿をあらわしていたのは、目立たない衣を着て髪を結いあげた女性だった。

 だが、その容姿は、目立たないどころではなかった。

 顔立ちは非常に美しい。

 そして、肩先からあらわになった腕と、衣のすそからのびる足は、プサウミスのそれよりもはるかにたくましく、日に焼けている。


「いや、きっと、わたしの聞きまちがいだろうな。スパルタ人の天幕のなかで、スパルタの若者を、それもわたしの息子をばかにするなんて、そんな命知らずな愚か者がいるはずはない」


「アルケシラオス殿!」


 プサウミスが、すばやく後ずさってアレウスから距離をとりながら、非難がましく叫んだ。


「あなたの家は、いったい、どうなっているのです? スパルタ人の男は、自分の妻に、ふさわしいふるまいというものを教えないのですか? 男どうしが話している場へ、こんなふうに女が出しゃばってくるなど、聞いたこともない!」


が?」


 答えたのは、アルケシラオスではなく、あらわれた女性のほうだった。

 彼女は不思議そうに右や左を見た後、自分の片足をあげて足元の地面を見、それから、プサウミスを三呼吸のあいだほども見つめて、不意に笑顔になった。


「ああ! これは、とんだ失礼を。わたしには、ので」


「母上!」


 もはや我慢がならないというように顔をしかめて、アレウスが言った。


「そのような言い方は、いくら何でも、礼を失するというものです。ね」


 ホメロスがおもわずふき出し、プサウミスは怒りに顔を赤くした。


「烏のところへ行け!」


 するどい呪いの言葉を投げつけておいて、プサウミスは、血のついた「スパルタ風」の壺をかかえたまま天幕から飛びだしていった。

 取り巻きの少年たちと、屈強な奴隷たちがあわてふためいて主人のあとに続き、つむじ風のように立ち去っていった。



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[良い点] さすがスパルタの女! これまでの登場人物中最強の風格がある……!
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