呪われたスパルタ人 6
アルケシラオス殿はちょっとの間、内心をうかがわせない石像のような顔つきで座っていたが、やがて視線だけを小さく動かした。
それだけで父の意向を了解したアレウスが、奴隷をうながして退出する。
天幕のなかにホメロスと二人きりになったところで、アルケシラオス殿はようやく口をひらいた。
「アレウスの命を、ねらう者がいる」
「それはもう分かっていることです。息子さんは、失神するほどの強さで後頭部を殴られたのです。息子さんの頭蓋骨が、犯人の想像よりも頑丈だったために助かりましたが、そうでなければ、死んでいたとしても不思議はありませんでした」
いささか不謹慎とも思われるほど軽快な調子で、ホメロスは言った。
「息子さん――アレウス君は、明後日の戦車競走に、御者として出場するそうですな。そのことと、今回の一件とは、何か関連があると思われませんか?」
「そのとおりだ。何者かが息子の命を狙う理由とすれば、理由は、そのこと以外には考えられん」
「疑わしい者は?」
問われて、アルケシラオス殿はしばらくのあいだ無言でいたが、やがて、
「カマリナの、プサウミス」
と低く答えた。
「カマリナ……」
ホメロスは記憶を呼び起こそうとするように目を細めて宙を見つめたが、すぐにあきらめてかぶりを振った。
「申し訳ありません。このあたりの地理にはうといもので」
「このあたりではない。カマリナは、シケリアの都市国家だ」
「シケリア? ……ああ! そうか、シチリア島だ! 学生時代、トゥキュディデスで読んだ覚えがある」
興奮して手を打ち、子供のように声をあげたホメロスだったが、すぐに落ち着いて椅子に座りなおし、両手の指先を突きあわせた。
「なぜ、その人物に疑念を?」
「カマリナのプサウミスは、前回の戦車競走の優勝者なのだ」
「なるほど。今回も優勝を狙って、ライバルを事前に取り除こうと企んだ可能性があるということですね」
「可能性、ではない。現実に、よからぬ企みが巡らされておる」
アルケシラオス殿は立ちあがって天幕の片隅に行き、布で厳重にくるまれた小さな包みを取り上げ、ホメロスに投げてよこした。
包みのなかには、筒状に丸められた、うすい金属板がはいっていた。
「鉛、あるいはその合金を薄くのばしたものですね」
丸められた金属板を慎重にのばしてみながら、ホメロスはつぶやいた。
「内側にも土がついている。地中に埋まっていたんだ。しかし、そう古いものではないな。板がしなやかさを失っていないし、ひどく錆びてもいない。おや! 内側になにか書いてあるぞ。かたいもので引っかいて、疵をつけたんだな。ここに見えるのは、人間のかたちだ。まわりに、文字が書いてある! ……失礼ですが、なんと書いてあります? 僕は、文字の読み書きができませんので」
「呪いの言葉だ」
アルケシラオス殿は、いまいましそうに言った。
「わしと、息子の名とともに、冥府の神々によびかける呪文がきざまれておる。馬たちが走路をはずれるように、車軸が折れるように、戦車が横転して御者が地面を引きずられるように、とな。これで、少なくとも、アレウスの勝利を望まぬ者が実在するということについては証拠だてられるであろう」
「なるほど。少なくとも、これを書いた者は、文字の読み書きができるということですね」
アルケシラオス殿にじっと見つめられ、ホメロスは、ああ、と片手を振った。
「あなただなどとは、申しておりません」
「当然だ。そんなことをぬかす者がいれば、舌を切り取ってやる」
「それほどの蛮勇の持ち主は、めったにいないでしょうな」
ホメロスはかすかに笑いながら、手にした呪詛板を眺めまわした。
「アレウス君を殴った犯人との関連は、いまのところ不明ですが、これはこれで、調べてみる価値がありそうです。この呪詛板が見つかったのは、いつのことですか?」
「今朝だ」
「今朝? しかし、あなたがたがこの場所に着き、天幕を張ったのは、今日の昼前だったはずです。どこで、この呪詛板は見つかったのです?」
「ああ」
ホメロスが自分たちの到着を知っていたことに対して、アルケシラオス殿は驚かなかった。
オリンピア競技祭への出場をめざす者たちは、開幕の一か月も前から、オリンピアの北西に位置する都市国家であるエリスにつどう。
そこで行われる予選において優秀な戦績をおさめた者たちだけが、出場の資格を得ることができるのだ。
競技祭の二日前になると、すべての選手たちとその関係者たちは、はなばなしい行列を仕立ててエリスを出発する。
途中の村で一泊。
そして今朝がた、オリンピアに到着したのだ。
「昨晩、わしらはレトゥリニ村に泊まった。天幕をはり、眠るまでは、何事も起こらなかった。だが今朝の夜明けになって、天幕のそばの地面にその呪詛板が埋められているのを、アレウスが見つけたのだ」
「アレウス君が見つけた? では、この呪詛板は、見ればすぐにわかるような状態で埋められていた、ということですか」
「朝日があたって光ったのが見えた、とアレウスは言っていた。あとで、あれにくわしく聞いてみるがよかろう」
「そうしましょう。ともかく、呪詛板が埋められたのは、昨晩から今朝にかけての一夜のうちであったということになりますね」
「そのとおりだ。もちろん、カマリナのプサウミスの一行も同じ村に泊まっていた。やろうと思えばできたはずだ」
「僕が現場に立ちあってさえいれば、もっとはっきりしたことを申しあげることもできたのに、残念です。――夜のあいだ、天幕の周囲に、不寝番はたてていなかったのですか?」
「見張りは、戦車と馬たちのほうに厳重につけておったのだ」
「なるほど。で、発見者のアレウス君は、この呪詛板について何と?」
「このようなことになっても、あの子は、すこしもおそれておらぬ。わしの名誉のために、命をかけて戦うというのだ」
それまでは淡々とした話しぶりをくずさなかったアルケシラオス殿の声に、このときはじめて、父親らしい感情のゆらぎがあらわれた。
戦車競技においては、優勝の栄誉は、御者ではなく、戦車の持ち主にあたえられるというきまりがある。
今回、アレウスが勝利を得れば、優勝者としてその名をきざまれるのは、御者であるアレウス本人ではなく、戦車の持ち主である父親のアルケシラオス殿なのだ。
「あなたは、本当は、アレウス君に出場を辞退してほしいとお考えなのですか?」
「とんでもないことを! アレウス以外に、あの馬たちを御することができる者はおらぬのだ。それに、呪いをおそれてオリンピアの競技への出場をとりやめるなど、あり得ぬ。そんなまねをすれば、我が一族の名に、消すことのできぬ疵をつけることになるだろう」
アルケシラオス殿は、じっと自分をみているホメロスの灰色の目を、まっすぐに見返した。
「つめたい父親と思うか。みずからの名誉のために、息子の命を費消しようとしておると。だが、あの子は、わしの宝だ。
わしもスパルタの男、戦争でいつ息子を失おうとも嘆かぬという覚悟はできておる。正々堂々の競技で起きた事故ならば、神々の御意思と思い、あきらめることもできよう。
だが、こんな卑怯な呪いのために、息子の命が奪われるなどということになったら、」
アルケシラオス殿の手が小さくふるえ、彼は、それをかたく握りしめた。
「もしも、そんなことになったら、わしは、この手で、犯人を殴り殺す」
「スパルタの男らしいお考えです。しかし、どうにも不思議ですな」
ホメロスは言った。
「あなたは先ほど、しろうと占い師のことは、まったく信用なさらなかった。それなのに、なぜ、呪詛板の効きめにかぎって、そのように心配なさるのです?
一見してわかるように埋められていたということは、犯人は、これが発見されることを期待していたとも考えられます。では、何のために? あなたやアレウス君に、精神的な打撃をあたえるためではないでしょうか?
すぐれた運動選手が、試合の前に精神的な痛手を受けたために、その力量を存分に発揮することができなかったという例は数多くあります。まさにそれこそが、呪詛板を埋めた犯人のねらいなのかもしれません」
「そなたは、呪いの力を信じぬというのか」
「ええ。あなたが、しろうと占い師を信用なさらなかったのと同じくらいにね」
「わしは……」
アルケシラオス殿は一瞬、言いよどんだ。
「わしは、呪いの力を、信じておる」
そう言ったアルケシラオス殿の顔には、古傷の痛みをこらえようとするかのような表情が浮かんでいた。
「昔、わしの、親しかった者が死んだ。そのすぐ後に、その者を呪う呪詛板が見つかったのだ。呪詛板には、その者の死を願う呪いがほどこされていた」
「たいへんお気の毒でした。しかしながら、偶然ということもありえます」
「たしかに、偶然ということもあろう。一度きりならばな。だが、今回のことで、四度目なのだ」