呪われたスパルタ人 5
* * *
「おまえの試合が明後日でなければ、殴りつけているところだ」
天幕のなかで、アレウスからの報告をききおえたアルケシラオス殿は、不機嫌さを隠そうともせずに言った。
オリンピア競技祭のあいだ彼らが宿泊するための天幕は、聖域の南側、アルフェイオス川をこえてすぐの野原にたてられていた。
多くの金持ちや権力者は、みずからの力を誇示するべく、天幕を豪華に飾りたてる。
だが、アルケシラオス殿の天幕は、浪費をいましめるスパルタの国風をあらわすように簡素で、内部にも最低限の品物しか置かれていなかった。
客人のために椅子を運んでこようとした奴隷を、片手を振って壁際にさがらせ、アルケシラオス殿は息子を厳しく叱責した。
「スパルタの男がうかうかと背後をとられたばかりか、殴られて気をうしない、相手を取り逃がすとは。なんたる失態!」
「申し訳ありません」
アレウスは従順に目を伏せて答えた。
「必ずや見つけだし、思い知らせます」
「どこの馬の骨ともしれぬ男の力を借りて、か?」
アルケシラオス殿の目がぎろりと動き、アレウスの後ろに立っている男を見た。
ホメロスは愛想よくほほえみ、アルケシラオス殿を見かえした。
そのまま、沈黙のうちに、かなりの時間がながれる。
とうとうアレウスが伏せていた視線をあげ、ふりむいてホメロスを見た。
アルケシラオス殿は、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「話せ、外国人よ! きさまの口が、飾りでないのならばな」
「これは失礼。あなたがたの国風をまねてみたのですが」
ホメロスの返答に、アルケシラオス殿の表情はますます険しくなった。
「スパルタ風の弁論とは、必要最低限であることだ。必要なことも話すことができぬならば、ただの愚か者だ」
「僕の名はホメロス、旅人です。わけあって、父の名も、出身地も申しあげることはできません。偶然、息子さんが倒れているところに来あわせて、知り合ったのです。不審に思われるのも無理はないが、もしもお任せいただけるのならば、僕が、息子さんを狙った犯人を突きとめましょう」
「父上」
アレウスが、とりなすように口をひらいた。
「彼は――ホメロスは、いまあることだけでなく、過去の出来事も、人の心の中をも見通す力をもっています。わたしが、かつての戦いで深手を負い、命を落としかけたことも、拳闘をやることも、その腕前についても、みな知っていたのです」
「息子よ」
アルケシラオス殿は、ひややかに言った。
「スパルタの男で、命がけの戦いをしたことのない男など、一人もおらぬ」
「しかし」
反論しかけて、アレウスは、はっと口をつぐんだ。
彼の体には、これまでの戦で負った傷のあとが、いくつも残っている。
見る者が見れば、その傷が何によるもので、どの程度のものであったかもわかるだろう。
先ほど茂みのなかでアレウスが衣を脱ぎ捨てたときに、目のはやいホメロスが、傷痕のようすを見逃したはずはなかった。
アルケシラオス殿は、さげすむように鼻をならした。
「しろうと占い師などに用はない。だれにでも当てはまるようなことを、もっともらしく告げて、小金を稼ごうとする卑しいやからだ」
「ですが、父上……拳闘の腕前のことは?」
「スパルタの男で、拳闘をせぬような男も、一人もおらぬ。拳のようすを見てもわかることだ。そして、おまえの顔には、鼻がつぶれた形跡も、真新しい傷も、痣もない」
「私が、よく眠れていないことも知っていました……」
「目の下に隈ができておる」
言下に切りすてて、アルケシラオス殿は、ホメロスをにらみつけた。
「失せろ。きさまのようなものに用はない」
「ブラヴォー!」
凍りついた空気を打ちくだくように、大声と拍手とが天幕にひびきわたった。
あまりの場違いさに目をむいたスパルタ人の親子に、ホメロスは陽気に笑いかけた。
「いや、お見事! あなたは探偵の手法をすっかりものにしておられる。スコットランド・ヤードの連中に、お手本として見せてやりたいくらいですよ」
「きさま、耳も飾りか。失せろ」
「僕の手腕をお疑いのようですな」
「三度は言わんぞ」
アルケシラオス殿が岩のような拳をかためながら前に出るのを見て、アレウスがすばやく割ってはいろうとしたが、父親の槍の穂先のごとき一瞥にあい、やむなく出足を止めた。
アルケシラオス殿の目の動きをじっと見つめながら、ホメロスは、にやりと笑った。
「やはり、僕の手腕をお疑いのようですな」
目にもとまらぬ速さでアルケシラオス殿が繰り出した拳は、やわな顎なら一撃で粉砕しかねない威力をそなえていた。
だが、思わず顔をしかめたアレウスの目の前で、ホメロスが倒れることはなかった。
最小限の動きでアルケシラオス殿の打撃をかわしたホメロスは、すばやく繰り出した左ストレートを相手の頬に叩きつけ、大きくよろめかせた。
アレウスは――スパルタの男としてはきわめて珍しいことに――あんぐりと口をあけ、壁際でまったく同じ顔になった奴隷と目を見合わせた。
「こう見えても、拳闘には多少の心得がありまして」
ホメロスのせりふに続くしばらくのあいだ、天幕のなかはたいへんな騒ぎになった。
怒りくるった牡牛のようなうなり声、激しい拳の応酬、鈍い音とうめき声。
殴り合いはやがて取っ組み合いに発展し、締めあげ、投げとばし、吹っ飛んだホメロスが床に叩きつけられて椅子を倒したかと思えば、アルケシラオス殿の巨体が天幕の壁に突っこみ、布地が裂ける派手な音をたてた。
「何でもない、持ち場に戻れ!」
天幕の外から何事かと駆けこんでこようとした従者たちを、アルケシラオス殿が一喝し、戸口に立ったアレウスが、彼らを外へと押しもどした。
「あなたは……いまの奥方に、たいへん愛され、かつ、尊敬されておいでだ」
口元をぬぐった手の甲にべっとりとついた鼻血を見下ろしていたアルケシラオス殿は、聞こえてきた言葉に、目を見開いた。
額に大きなこぶをつくり、左目のまわりを腫らしたホメロスは、少しばかりふらつきながらも、
「よほど仲むつまじいご家庭なのでしょうな。それに、そう、犬も飼っておいでだ。お気に入りの犬の名は、メラス……いや……違うな。おそらくは……メランプース。違いますか?」
そう言って、いたずらっぽく笑いかけた。
「いや……」
アルケシラオス殿は急速に腫れあがる頬に触れながら、信じられないという表情でつぶやいた。
「前もって、調べておいたに違いない。そんなこけおどしは……」
そこまで言って、
「なぜ、分かった?」
と、ホメロスを見据えた。
「少しは、僕の手腕を認めていただけましたか」
「なぜ、分かった?」
奴隷があわてて起こした椅子をホメロスにすすめ、自分ももう一脚を運ばせて腰をおろしながら、アルケシラオス殿はくりかえした。
「単純な推理です」
椅子におさまったホメロスは、乱れた頭髪を慎重な手つきでととのえながら、
「あなたの衣のあちこちに、黒い毛がついている。明らかに犬のものです。そうやってじゃれつくことを許し、スパルタからオリンピアにまでともなってくるほどなのですから、お気に入りの一頭なのでしょう。名前の件に関しては――まあ、論理にいささかの飛躍があったことは否定できませんがね。僕はオーヴィッドの『変身物語』を読みましたが、かの不運な狩人アクタイオーンは、何という名のスパルタ犬を飼っていました?」
「『変身物語』?」
怪訝そうにくりかえしたアルケシラオス殿だったが、その表情には、耳慣れぬ言葉よりも、もっと他に気にかかることがあるようだった。
だが、ホメロスは、それ以上は推理の種明かしをすることなく、話をすすめた。
「アルケシラオス殿。あなたもまた、最近、よくお眠りになっていないようだ。……ええ、いみじくも御自分でおっしゃったとおり、目の下に隈が出ていますよ。息子さんに関わることで、なにか大きな問題が起きているのではありませんか?」
「自分ならば、解決することができると?」
「何もかも包み隠さず打ち明けていただけるのならば、必ずや、お力になれると存じます」
いまや、おどけたような愛想のよさはなりをひそめ、名探偵の灰色がかった両目は、獲物を見すえるフクロウのそれのような光をおびていた。
「どうかお話しください。犯人に、心当たりは?」