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呪われたスパルタ人 4

「たとえば、実行犯と、命じた者とが、密談をしていたということは?」


「そうではない、と断言することができるね」


 ホメロスはそう言いながら、しっかりとつまんだままだった、先ほどのウールの繊維を持ちあげてみせた。


「第一に、色が違うよ。しげみに引っかかっていた繊維には、染められた痕跡がない。それに対して、先ほどの二人組が着ていた衣は、明るい黄色と青色とに染められていた。

 第二に、密談には違いないが、内容は、もっと甘ったるいものだったようだね。僕は、ほんのわずかに立ち止まって、彼らがいたあたりの地面を観察してみたんだ。どうも、二人の人間が激しく取っ組みあったような痕跡があったよ」


 アレウスは彫像のように静かな表情でホメロスを見返し、ややあって、大きくうなずいた。


「レスリングの特訓か」


「ハ! 君はイギリスの公爵夫人よりも、この手の話題に対してとぼけてみせる芸が達者なようだ」


 苦笑いを本物の笑顔に変えてホメロスは言ったのだが、アレウスは、唇を真横にむすんだまま、ぴくりとも表情を動かさなかった。

 それを見て、ホメロスの笑顔も、苦々しいものに戻った。


「いや、紳士ともあろう者が、品のない発言だった。いまのは忘れてくれたまえ。さいわいにして、僕は、逃げた男たちの背格好をはっきり見ている。後ろ姿だけだが、それでじゅうぶんだ」


『なにが、じゅうぶんなんだい?』


 と、彼の信頼すべき友人であり伝記作家ならばかならず言ってくれるだろうところで、ホメロスはすこし間を置いたが、アレウスが無言のまま見つめてくるばかりだったので、自分で先を続けた。


「彼らは、短距離走の選手だよ」


『どうして、それが分かる?』


 ともアレウスがたずねないので、説明の機会は永遠に失われたが、要は、体つきの特徴から、そう判断したのだった。

 しげみの切れ目で一瞬だけ見えた、臀部と大腿部の筋肉。

 その卓越した発達具合と全身のバランスから見て、逃げた二人組は、どちらも陸上競技――それも短距離走の選手であることは疑いがなかった。

 だからこそ、彼らは、アレウスの猛追をも振り切ることができたのだ。


 アレウスを殴った犯人が、あの場所のすぐ近くを通って逃げたことは、折れた枝などの痕跡から見てあきらかだった。

 ならば、あの二人組のどちらか、あるいは両方が、犯人の姿を目撃した可能性は高い。

 逃げた二人組――なぜ逃げたのかの理由は不明だが、おそらく、あの逢瀬を人に知られてはまずい事情でもあったのだろう――を見つけ出し、話を聞くことができれば、アレウスを殴った犯人の正体に迫ることができる。


「青い衣の男は、二の腕にあざがあった」

 

 急に、アレウスが、ぼそりと言った。

 おどろきに目を見開いたホメロスに向かって、彼はさらに続けた。


「左腕に、だ。どちらも髪は黒く、短かった。だからスパルタ人ではない。どちらも、歳は俺と同じくらいか、俺よりも若い。黄色のほうが、より若く見えた」


「ブラヴォー!」


 心からの笑顔を浮かべ、ホメロスは叫んだ。


「いや、お見事! 僕も、おなじ特徴をとらえていたよ。正確な観察、これこそが事件を解決にみちびく一番の早道だ。これだけの特徴がそろえば、個人を特定することも、さほど難しくないだろう」


 ホメロスは熱心に言い、スパルタの若者に向かって右手をさし出した。


「アレウス君、あらためて自己紹介させてもらうよ。僕の名は、ホメロスだ。どこから来たのかは、いまは言えない。わけあって、旅の身の上なんだ」


 アレウスは、いきなりさし出された右手を、少しおどろいたように見つめていたが、


「スパルタの、アレウス」


 すぐに、その手を取って力強く握りかえした。


「アルケシラオスの息子だ」


「アレウス君。襲ってきた者の正体に心当たりはない、と君は言っていたが、君を襲った者が、何の・・ために・・・そうしたのかということについても、心当たりはないのかい?」


「勝利だ」


 恐れも、怒りすらも見せずに、アレウスは淡々と答えた。


「俺は、明後日、戦車競走に出場する。俺が出場できなくなれば、他の者は、それだけ勝利に近づく」


「戦車競走だって? では、君は、御者なのか」


 ホメロスは興奮に目を輝かせ、アレウスを見つめた。


戦車の・・・御者・・か! 君が馬と深くかかわっていることまでは推測していたのだが、騎手かと思っていたよ。戦車の御者とはねえ! ロンドンの御者たちならば、一目でその職業も、乗っている馬車の種類も言いあてることができるんだが。

 しかし、明後日が大切な試合だというのに、君はなぜ、あんなさびしいところをほっつき歩いていたんだ?」


「明後日が大切な試合だから・・・だ」


 アレウスは答えた。


「今のオリンピアは騒がしすぎる。天幕にいれば、父上の客がひっきりなしにたずねてくる。静かな場所で、試合のことを考えたかった」


「なるほどね」


 どこか上の空のようにあいづちを打ちながら、つくづくとこちらの姿を眺めてくるホメロスの様子を、アレウスも同じように、じっと観察した。

 大きく見開かれたホメロスの灰色の目は、智恵深きフクロウのそれのように、なにひとつ見落とすことなどないかのようだった。

 やがて、


「アレウス君。君は……かつて、戦争に出たことがあるね。それも、何度もだ」


 神々の言葉を告げる巫女のように、ホメロスはつぶやきはじめた。


「そのうち一度は、危うく命を落としかけた。

 御者だというが、拳闘のほうも、だいぶやっている。かなりの腕前で、試合に出れば、めったに負けることはない。

 きわめて強い精神力の持ち主ではあるが、最近、周囲で起きた出来事に、ひどく神経を悩まされている。そのせいで、ここのところ、あまりよく眠れていないようだ」


 黙ったまま聞いているアレウスの目は、ホメロスの言葉が続くにつれて、どんどん大きく見開かれていった。

 ホメロスは、はっと我に返ったようにまばたきし、きまり悪そうな表情を浮かべた。


「いや、すまない。立ち入った真似をするつもりじゃなかったんだが、職業病というやつでね。どうだい、間違っているかい?」


「おまえは……」


 アレウスの顔には、いまや、スパルタ人がめったに見せることのないふたつの色が浮かんでいた。

 驚愕と、畏怖だ。


「どういう男なんだ、ホメロス? おまえは、神々から、いまあることだけでなく、過去の出来事も、人の心の内をも、見通す力を与えられているのか?」


「そんなふうに表現したとしても、あながち間違いではないと思うね」


 そう答えたホメロスを、アレウスは食い入るように見つめていたが、やがて、ささやくように言った。


「俺といっしょに来てくれ、ホメロス。おまえの助けが必要だ」



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