呪われたスパルタ人 3
「あの野牛の群みたいな連中が、君を遠巻きにしただけで、すぐそばまで寄らなかったことは、さいわいだったよ。半径4フィート以内の痕跡は無事だ。
君は、背後から殴られた。一撃だ。気の毒な亀が転がされ、本物の凶器は持ち去られた。犯人の正体に心当たりは?」
「ない」
思わず引きこまれたという調子で答えてから、アレウスは、小さく顔をしかめ、
「不覚だった」
とつぶやいた。
正体不明の何者かに背後から殴られて気をうしなったという事実は、スパルタ人である彼にとっては、災難でもなく、恐怖でもなく、恥辱に他ならないのだ。
一度はしかめられたアレウスの顔は、しかし、すぐに、ぽかんとした表情に変わった。
彼の目の前で、ホメロスが不可思議な行動をとりはじめたからだ。
「もっと、地面がやわらかければよかったんだが」
ホメロスは、落とした豆粒をさがす奴隷のように地面に這いつくばり、ぶつぶつ言いながら、あちこちを透かし見た。
「イギリスとは、いかにも勝手が違うよ。こう、かちかちに乾燥していちゃ……いや、いや、大丈夫だ! ここに見つけた。くっきりと、はだしの指の跡がある! 君を襲った男は――つまり、足跡の大きさから、男だと推測できるわけだが――ひとりだな。つま先立って、君の背後から忍びより、一撃をくらわせ……それから……よし、見つけた! あっちへ、走って逃げたぞ!」
ホメロスはぱっと跳ねおき、足跡を追って駆け出した。
アレウスも、つられるように彼の後を追った。
おいしげる灌木のしげみに突き当たったホメロスは、しばらく猟犬のようにせわしなく左右にうろうろしていたが、やがて短い歓声をあげ、
「ワトスン、これだ!」
と、なにかを灌木の枝先からつまみあげた。
「いや、違った。アレウス君、ほら、見たまえ。ほつれた繊維だ。ウールだな。染められていない。衣の端が引っかかったんだ。ここの枝が折れているだろう。この場所を、犯人が無理やりに通り抜けた証拠だ。さあ、行こう!」
勢いよくしげみに突入していくホメロスを、アレウスは一瞬、その場に立ち止まって見送った。
考えてみれば、別に、あの奇妙な男についていく義理はないのだ。
このまま放っておいて、好きに行かせればいい――
だが、次の瞬間にはアレウスもまた、ホメロスの背中を追って、茂みのなかに突っ込んでいった。
「ここにも、折れた枝。まだ新しい! 間違いない、こっちだ!」
突き出た枝が手足を引っかき、上衣をからめ取ろうとする。
ホメロスとアレウスは自分の上衣をしっかりとつかんで体に引き寄せながら、突き進んでいった。
すると、行く手で、かすかな物音がした。
不用意に動かした体が、しげみの枝葉にぶつかったというような――猟師の接近に気付いた獲物が、思わず立てるような――焦りを帯びた、物音。
「動くな!」
ホメロスが叫ぶと同時、しげみの奥でふたりの男が立ちあがり、猛然と走って逃げようとした。
ひとりは黄色っぽい上衣を着て、もうひとりは、淡い青色だ。
「待て!」
追いすがろうとしたホメロスを、背後から、猛然と追い抜いた者がある。
アレウスだ。
彼は邪魔な自分の上衣を振りはらうと、一糸まとわぬ姿で突進し、逃げる獲物にあと数歩というところまで迫った。
だが、相手方も渾身の力走を見せた。
しかも、ふたりが不意に左右に分かれた。
どちらを追うべきか、アレウスの追跡に一瞬の迷いが生じ、足取りがにぶったところを、ぐんと引き離されてしまった。
やがて、茂みは尽きて、人通りの多い道に出る。
アレウスにやや遅れて道に飛び出したホメロスが、おどろく通行人たちの視線を浴びながら荒い呼吸をしずめていると、おなじく息を弾ませ、全身を汗にまみれさせたアレウスが戻ってきた。
「逃した」
彼は無念そうにそれだけつぶやくと、急に、ふらりと倒れかかった。
ホメロスの支えで、なんとか踏みとどまり、そのまま地面に座りこむ。
「大丈夫かね、君? 頭をぶん殴られて、失神から目覚めた直後に、あんなふうに全力疾走するなんて、ワト……僕の友人が聞いたら、それこそ気絶しかねないよ。さあ、アレウス君、しっかりしたまえ!」
「ああ……」
アレウスは、手渡された上衣――しげみのなかで脱ぎ捨てたものを、ホメロスが引っつかんで回収していたのだ――で顔をぬぐい、それを体に巻きつけながら、何度も深く息をついた。
「ところで」
ホメロスは、複雑そうな面持ちで言った。
「君、どうして、いきなり服を脱いだ?」
「邪魔だったからだ」
アレウスは淡々と答えた。
彼らギリシア人の男性には、裸体になること、裸体を見ることに対する羞恥の感覚がない。
むしろ、怠惰や暴飲暴食により、堂々と人目にさらすことのできないような体つきであることのほうが恥なのだ。
「そういうものかい。イギリスでなら、逮捕されているところだよ」
ホメロスは小声でつぶやいたが、その声は耳に入らなかったらしく、アレウスはあいかわらず淡々とした調子でたずねた。
「ホメロス。俺をやろうとしたのは、いまの奴らか?」
「違うな」
ホメロスは、この上ない明快さで断言した。
「君の背後から忍びより、一撃をくらわせて逃げ去った男の足跡は、ひとりぶんだった。それに、足跡の歩幅から見て、かなりあわてて逃げたことは間違いない。それほど急いでおきながら、現場のすぐ近くのしげみでぐずぐずしているなんて、おかしいじゃないか?」